まず、青森の地方紙『陸奥新報』さん。「日曜随想」というコラムで、12月8日(日)の掲載でした。 

「アート悶々2」彫刻って?

 彫刻という言葉が芸術(アート)として捉えられるようになったのは明治以降のことで、それ以前は文字通り「彫り刻む技術」を意味するものだった。では、彫刻は「芸術(アート)である」というイメージはどのようにつくられてきたのだろうか。以下、ざっくりと見てみよう。。
 1876(明治9)年に工部美術学校が開設され、そこに彫刻学という学科がつくられた。ここにおいて教育機関として彫刻という文言が初めて出てきたが、その言葉の意味は、彫刻をつくる技術を指していた。西洋化を図るべく、所謂(いわゆる)銅像などをつくる技術を教えることが主な目的だったのである。その後、西洋一辺倒への反動から日本美術への回帰を唱えるフェノロサと岡倉天心によって82(明治15)年東京美術学校が開校された。当初は木彫科しか無かったが、やがて98(明治31)年に洋風彫塑が実技に加えられた。その後、高村光太郎や荻原守衛などの近代の作家がロダンの影響のもとに具象彫刻の概念を築き上げてきた(ただし高村光太郎は日本の伝統的な木彫も並行して制作しており、日本の彫刻の在りようを模索していたようにも見える)。
 やがて、抽象的な表現(これも西洋から入ってきた)が出てきて野外彫刻などの公共の場へとその活動の場が広がり、彫刻という概念に空間造形的なニュアンスも加わった。また近代以降の前衛芸術の中の立体作品や身体表現、形がない概念的なものなども彫刻と呼ばれ得るようになり、その捉え方は広がっていった。
 現代でもアーティストがつくった立体造形物であればあえて〝彫刻〟といったりすることがある。これらは以前であれば〝オブジェ〟などと表現されたりしたのであるが、〝オブジェ〟より〝彫刻〟の方が重厚なイメージがあるし、何と言っても芸術の香りがし、蘊蓄(うんちく)もある。これらは先人たちが築き上げてきた〝彫刻は芸術である〟というイメージを(意識的、または無意識的に)拠(よ)り所とし、これは芸術作品である、と主張しているようにも見える。
 以上、彫刻という言葉の持つ意味・イメージの変容を大雑把(おおざっぱ)に見てきた。彫刻の概念は時代とともに広がって(というより曖昧(あいまい)になって)捉えるのが難しくなった。ただ使われている意味はいろいろだが、彫刻という言葉だけに限って言えば、今のところアートの範疇(はんちゅう)に収まっていることは確かであるようだ。
 かこさとしの子ども向け美術入門書「すばらしい彫刻」というすばらしい絵本がある。。その冒頭に彫刻家のことを「にんげんは 大むかしから 石を つみあげたり いわを きざんだりして いろいろな かたちや すがたを つくってきました。それを つくるひとを 彫刻家とよびます。。」と定義している。彫刻家の仕事は、これで十分なのかもしれない。。
 (弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)



たしかに「彫刻」の定義、難しいですね。


続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。短歌等を紹介するコラムです。12月15日(日)の掲載。 

うたの泉(1121)

野がへりの親は親馬子は子馬 乗鞍おろし雪はさそふな/高村光太郎(たかむら・こうたろう)(1883~1956年)
 詩人で彫刻家の高村光太郎は短歌も作りました。「野がへり」は野原に放たれたのち帰ってくる馬のことでしょうか。「親は親馬子は子馬」。当たり前のことですが、リズムが良く。足音が聞こえてくるようです。「乗鞍」は長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる山々の総称。その山々から強い風が吹いてくる。結句から、雪よ降らないでくれという作者の気持ちが伝わります。下句の朴訥(ぼくとつ)としたリズムに、光太郎の立ち姿が見えてくるようです。(駒田晶子)

明治35年(1902)、与謝野夫妻の雑誌『明星』に発表された「旅硯」31首中の一つ。前年8月から9月にかけ、長野、戸隠、野尻、赤倉、松本、木曽福島、御岳などを巡った旅の途上での作です。この時光太郎19歳でした。


さらに、『読売新聞』さん。12月16日(月)の夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

冬の日に枯れ枝を見て何を思うか。高村光太郎の言葉は意表をつくかもしれない。<何というその枝々のうれしげであることだろう。>◆来年の花を咲かせる喜びにみちている。詩人にはそう映ったらしい。こう書いてもいる。<季節のおこないそのものは毎年規律ただしくやってきて、けっしてでたらめではない>(随筆「山の春」)規律は今もただしいだろうか。この9~11月の平均気温は東日本、西日本とも史上最高となり、秋を実感できないとの声が聞かれた。木々が枯れる以前に紅葉の遅れた地域も少なくない◆冬のマドリードで開かれたCOP25が閉幕した。国連の「気候変動枠組み条約第25回締約国会議」の略称だが、今回は「気候変動」ならぬ「気候危機」の表現で問題の深刻さが強調されたという。個々の事象の原因はともあれ、地球規模で従来の季節の規律が失われたなら、それは「危機」にほかならない◆総論で何とか一致をみても、内実は足並みが乱れている。この現状に終止符を打たねば春は遠い。

そのためには、CO削減に全く意欲を示さない某大国大統領や、それにシッポを振るだけしか能のない某国首相などを何とかしないといけないような気がしますが……。「桜」は大好きなようですけれど(笑)。


最後に、光太郎智恵子などの名は出て来ませんが、一昨日、このブログでご紹介した谷崎由依さんの小説『遠の眠りの』(智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』に関わる部分もある小説です)が取り上げられています。 小説の舞台となった福井の地方紙『福井新聞』さんの一面コラムです。 

越山若水 12月15日

福井が太平洋戦争に至るまでのつかの間きら004りと輝いている時があった。だるま屋百貨店と少女歌劇部が象徴的な存在だった。その時代の街並み、人間模様を描いた小説「遠(とお)の眠(ねむ)りの」(集英社)が発刊された▼福井市出身の作家、谷崎由依さんが5年がかりで出版にこぎつけた。小説では仮名扱いだが、だるま屋の少女歌劇部を主な舞台に据え、隆盛を誇った羽二重、人絹の工場などを丹念に再現。“戦前の福井賛歌”の趣を随所に配しつつ、主人公の少女の淡い恋、福井の人々の多様な生活ぶりが、巧みな空想で膨らまされ詩情豊かな味わい▼だるま屋は1928(昭和3)年に創業。県庁舎が旧福井城本丸跡に移転した跡地だった。当時の繁華街は九十九橋から呉服町周辺のため県庁舎跡地はなかなか買い手が付かず、県から要請を受けた坪川信一氏が熊谷組の熊谷三太郎氏の援助を受け開業した▼坪川氏の友人だった本紙の藤田村雨編集局長による「坪川信一の偉業」に詳しい。福井停車場には近かったのだが、跡地の約2万平方メートルは草っ原だったという。90余年を経た今日の駅前商店街からは想像もできない▼後継の西武福井店は、2021年には本館のみの営業となるが、県都の顔としての存在感が揺らぐものではない。だるま屋が草っ原を一変させたことに思いを巡らせれば、改めて地域のけん引役にと期待は募る。

明日も報道系、特に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がらみで。


【折々のことば・光太郎】

われわれ日本人はその天成の中に純文学には這入り易い素質を持つてゐる。けれども思想問題については得手ではない。

散文「思想全集を手にして」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

確かにそうかもしれません。花鳥風月を愛でたり、人情の機微を描いたりといったことは得手な国民ですが、個々にしっかりした思想があるかと問われると、「否」でしょう。特に現代は「思想」などと口にしたら「意識高い系」と揶揄されるのがオチです。ですから流される。歴史が証明していますね。それは光太郎も例外ではありませんでした。