11月23日(土)、午後2時からの第64回高村光太郎研究会に行く前に、白金台の東京都庭園美術館さんで開催されている「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展を拝見して参りました。

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同館の本館は昭和8年(1933)竣工の旧朝香宮邸で、アール・デコ様式の装飾が随所に施され、レトロ建築大好きな当方にとっては実にいい感じでした。

展示は三部構成。第一部が「アジアへの再帰」ということで、雲崗などを描いた杉山寧や川端龍子の日本画、中国的なものをモチーフとした岸田劉生や安井曾太郎(ともに光太郎の朋友)らの油彩画、やはり光太郎と親しかったバーナード・リーチの絵皿などが出品されていました。

第二部「古典復興」は、陶磁器、青銅器などの工芸がメイン。古代中国の作品と、そこからインスパイアされた近代日本の作品を並べて展示するという、面白い構成になっていました。

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さらに第三部は「幻想のアジア」をテーマにした現代アートでした。

拝観メインの目的は、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった、髙村豊周の作品を観ること。意外と豊周作品を観られる機会は多くありません。

今回、豊周作品は4点、出品されていました。


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左上は「朧銀杵形花器」(昭和36年=1961)、その隣が「青銅斜交文花瓶」(昭和3年=1928)。下段左で「鼎」(昭和30年=1955)、そして右下に「提梁花瓶」(昭和21年=1946)。それぞれ実に見事な作でした。

特に「青銅斜交文花瓶」などにはアール・デコの影響も色濃く見られるのですが、それだけでなく、やはり古代中国の青銅器の形態や様式を取り入れ、しかし大胆に用途を変更するといった工夫も見られます。鼎(かなえ)は元々は調理器具ですが、豊周の手にかかると花器に変貌しています。

豊周も若い頃は中国古銅器を手本とすることを忌避し010、モダニズム的な方向性が顕著だったのですが、のち、エスプリ・ヌーボーと伝統的な価値観の融合を目指すようになりました。そこには桂離宮などを絶賛した建築家、ル・コルビジェなどの影響もあったそうです。

右は、大正15年(1926)、豊周37歳の作「挿花のための構成」。若い頃の代表作の一つと見なされている作品です。画像は昭和58年(1983)、東京国立近代美術館工芸館さんで開催された「モダニズムの工芸家たち―金工を中心として―」展の図録の表紙です。特に戦後の作品と比べると、その違いは明らかですね。

帰りがけ、今回の展覧会の図録的な書籍『アジアン・インパクト 日本近代美術の「東洋憧憬」』(樋田豊治郎監修 東京都庭園美術館編 東京美術刊行)を購入。佐倉市立美術館さんの本橋浩介氏による「金工モダニズムと古代青銅器」という論考が載っており、興味深く拝読しました。本橋氏、やはり「挿花のための構成」を引き合いに出されていて、考えることは
同じだな、と思いました(笑)。

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ところで、東京都庭園美術館さんということで、広大な庭園も付帯しています。

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が、行った当日、豪雨というほどではなかったものの、それなりの雨でして、ほとんど見ずに撤収。紅葉は少し見られましたが、残念でした。また日を改めて訪れたいものです。

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「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展は、来年1月13日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は現今の多くの日本の油画を油画といふよりはむしろよく発達した密陀絵に近いと思つてゐる。昔の密陀絵の延長であつて、材料こそ便利な泰西の絵具を使へ、実は何等油画と関係の無い仕事の方が多いと見てゐる。

散文「宮坂君について」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

上記だけ読むと、そうした傾向を批判しているように読めますが、そういうわけでもなく、同じ文章では「私は素より此を非難しない。日本人が東洋の画法にしたがふのに何の不思議もないのである。」としています。今回の展覧会のコンセプトにつながるような発言ですね。

ただ、凡ての画家がそこで終わるのではなく、西洋的感覚を十分に我がものとした画家も出て欲しい、とも。

宮坂君は、宮坂勝。長野県出身の画家で、光太郎がそうした期待をかけた一人でした。