雑誌系、2件ご紹介します。
一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。
花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。
メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。
ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))
もう1件。
歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。
サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。
傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。
まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。
しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。
それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。
これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。
それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。
しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。
ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。
戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。
花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ) vol.16
2019年10月20日 Office風屋 定価500円(税込)一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。
花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。
メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。
ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))
もう1件。
季論21 2019秋 第46号
2019年10月20日 本の泉社 定価909円+税歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。
サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。
傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。
まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。
しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。
それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。
これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。
それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。
しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。
ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。
散文「山形県総合美術展彫刻評」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳
戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。