昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。
昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。
昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。
父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。
そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。
こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。
光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。
水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。
水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。
昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。
父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。
そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。
こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。
光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
左が進氏です。
脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。
水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。
談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳
水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。