昨日は都内港区の青山葬儀所さんに行っておりました。過日ご紹介した、出版社二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏の「お別れの会」参列のためです。
青山葬儀所(別名・青山斎場)さん。昭和31年(1956)4月4日、光太郎の葬儀もここでで行われました。
その同じ場所で渡邊氏のお別れの会というのも奇縁だなと思いました。
当会の祖・草野心平による『わが光太郎』(昭和44年=1969)、それからやはり光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄による『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962)。ともに光太郎研究には欠かせない回想です。
翌年発行の『PR書画船 かく!』第2号には、当会顧問北川太一先生ご執筆の「声が聞こえる ―智恵子紙絵の魅力」が。
今後とも、光太郎智恵子の名を次世代に継承していくために、お力添えを頂きたいものです。
そして改めまして渡邊氏のご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
人は真の自由を得又自由といふものゝ真の意味を知れば、実に行住坐臥度を外れないものである。自由にして而も芸術の正道を学生に踏ませるには、どう考へても学校全体の空気が芸術的良心の真摯な力に充ちて居なければならぬ。そして芸術精神が渦を巻いて居るやうに旺盛でなければならぬ。
二玄社さん、「芸術的良心」「芸術精神」の涵養に貢献すること実に大、ですね。
ところでこの文章、学校に於ける美術教育のあり方について論じたものですが、「学校全体」を「国全体」と読み替えてもいいような気がします。
青山葬儀所(別名・青山斎場)さん。昭和31年(1956)4月4日、光太郎の葬儀もここでで行われました。
その同じ場所で渡邊氏のお別れの会というのも奇縁だなと思いました。
二玄社さん、写真製版の技術を生かし、中国古典籍の復刻や、雑誌『カーグラフィック』など、さまざまな分野で革新を起こされました。また、光太郎智恵子がらみの出版物等をたくさん刊行して下さっています。過日はその主なものをご紹介しましたが、他にもいろいろ。「あ、これも二玄社さんだったか」「ということは、あれもか」という感じで、当方自宅兼事務所の書庫、二玄社さんだらけです(笑)。順不同ですがご紹介します。
当会の祖・草野心平による『わが光太郎』(昭和44年=1969)、それからやはり光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄による『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962)。ともに光太郎研究には欠かせない回想です。
やはり智恵子系で、雑誌『書画船』第2号(平成9年=1997)。光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏へのインタビュー「智恵子と紙絵」が掲載されています。
翌年発行の『PR書画船 かく!』第2号には、当会顧問北川太一先生ご執筆の「声が聞こえる ―智恵子紙絵の魅力」が。
それから昭和43年(1968)初版、昭和61年(1986)新装改版の『文士の筆跡三 詩人篇』、平成16年(2004)には日本絵手紙協会の小池邦夫氏による『芸術家・文士の絵手紙』。光太郎の書や書簡も取り上げられています。
その他、二玄社さんも加盟している出版梓会さんによる『出版ダイジェスト』という業界紙があり、各社共同で発行される号と、二玄社さん単独の号があったりします。そちらにも当会顧問・北川太一先生の玉稿が載ったりしています。
今後とも、光太郎智恵子の名を次世代に継承していくために、お力添えを頂きたいものです。
そして改めまして渡邊氏のご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
人は真の自由を得又自由といふものゝ真の意味を知れば、実に行住坐臥度を外れないものである。自由にして而も芸術の正道を学生に踏ませるには、どう考へても学校全体の空気が芸術的良心の真摯な力に充ちて居なければならぬ。そして芸術精神が渦を巻いて居るやうに旺盛でなければならぬ。
散文「美術教育の本来」より 大正5年(1916) 光太郎44歳
二玄社さん、「芸術的良心」「芸術精神」の涵養に貢献すること実に大、ですね。
ところでこの文章、学校に於ける美術教育のあり方について論じたものですが、「学校全体」を「国全体」と読み替えてもいいような気がします。