立て続けに光太郎の名が新聞各紙に。光太郎メインだったりはしないものがほとんどですが。3回に分けてご紹介します。

6月28日(日)、『岩手日報』さん。

盛岡少年刑務所で高村光太郎祭

 盛岡少年刑務所(鈴木雅美所長)は12日、盛岡市上田の同刑務所で第49回高村光太郎祭を開き、受刑者約50人が更正と社会復帰への誓いを新たにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「心はいつでもあたらしく」の書と写真に献花。代表者が詩集の読書感想文と作文を発表し「道程」と「孤独が何で珍らしい」の詩を読み上げた。
 高村光太郎が1950年に同刑務所で講演したことから、78年以降に毎年開催してきた。鈴木所長は「高村さんの詩を理解し、人生を前向きに力強く生きてほしい」と呼びかけた。


記事にあるとおり、昭和53年(1978)から毎年開催されている行事です。年によって報道されるかされないかというところですが、令和5年(2023)には珍しく岩手めんこいテレビさんのローカルニュースで取り上げられました。かつては外部講師による光太郎についての講演もありました(当方も10年前にやらせていただきました)が、コロナ禍が契機だったかなという感じで、それは無くなったようです。

021朗読されたという「孤独が何で珍らしい」は以下の通り。昭和5年(1930)、鹿児島の同人雑誌『南方詩人』に寄せた一篇です。このころは送り仮名のルールが確立されておらず、現代では「珍しい」ですが光太郎を含め「珍らしい」とする場合が多くありました。誤植ではありません。
 
   孤独が何で珍らしい
 
 孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の
 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ
 孤独の鉄(かな)しきに堪へきれない泣虫同志の
 がやがや集まる烏合の勢に縁はない
 孤独が何で珍らしい
 寂しい信頼に千里をつなぐ人間ものの
 見通しのきいた眼と眼の力
 そこから来るのが尽きない何かの熱風だ

たとえ孤独であっても、孤独な者同士が手を差し出し合って野合ではない心の繋がりが生まれ、しかしあくまで個は個、という二重三重のロジックでしょうか。「寄らば大樹の陰」的な「がやがや集まる烏合の勢」の政治家たちにつきつけたい一篇ですね。

続いて掲載順が前後しますが6月27日(土)、『朝日新聞』さん書評欄。

『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』 熊谷誠人〈著〉 感受性育んだ母との幸福な経験016

 今年、生誕100年、没後20年を迎えた詩人・茨木のり子。関連書籍が次々と刊行される中、発見のつまった宝箱のような評伝が世に出た。
 茨木が詩を書き始めたのは24歳。本書はそこに至るまでの時期に絞り、驚くべき調査力と的確な作品の読み解きによって、少女時代の茨木の姿をあざやかに浮かびあがらせる。茨木の没後、作品の管理に携わり、全集の編纂(へんさん)などにも協力してきた甥の宮嵜治氏は〈穏やかに笑うティーンエイジャーののり子のポートレートがここに完成した〉という言葉を寄せている。
 茨木は、若い世代に向けた詩の入門書『詩のこころを読む』や、与謝野晶子や高村光太郎の評伝など、すぐれた散文の仕事も残している。だが自身の生い立ちやプライベートな事柄についてはあまり書き残しておらず、本書で初めて明らかにされたことは多い。中でも茨木の人生と作品を深く知るために重要と思われるのが、11歳で死別した母親への思いだ。
 母の死が心の傷になったことは、詩人の吉原幸子との対談でちらりと漏らしているだけで、詩として表現することはなかった。そこには父の後妻となった人への配慮もあったのではないだろうか。
 著者は茨木が書いたNHKのラジオドラマ「電話」の脚本を発見する。出演した女優・山本安英の回想録にタイトルが出てくるが内容は不明だったこの作品は、母を亡くした小学生の男の子が心の中の電話で母と対話し、それを支えに生きる物語だった。そこには〈母を失ったのり子が、どんなふうにして自分の心の傷との折り合いをつけて日々を生きていったのかを読み解く鍵が隠されているように思います〉と著者は書く。
 現在の愛知県西尾市に住んでいた茨木は、宝塚歌劇を愛した母に連れられ、名古屋や東京で公演を観(み)ている。著者はその日付や演目、出演者までを特定する。そして当時の茨木の日記にある、東京からの帰路の列車で宝塚歌劇団の一行に遭遇しサインをもらっったという喜びと興奮に満ちた記述を裏付けるのである。
 少女期、母とともに美しいものにふれた幸福な経験。それを明らかにすることは、その後の戦時下で彼女を精神的に支え、詩人としての感受性を育んだものを知る手がかりとなる。掘り起こされた伝記的事実が、茨木作品の深い読みへといざなうのだ。
 茨木のり子の研究を続けてきた著者は、彼女が育った愛知県で長く教職にある人。戦時中の学校生活など、時代背景についてもわかりやすく解説されている。若い読者にぜひ届いてほしい一冊だ。(評・梯久美子 ノンフィクション作家)

茨木のり子は、生誕100年ということで、ちょっとしたブームです。「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」など、鋭い刃物を突きつけられるような一篇です。

詩のこころを読む』は昭和54年(1979)、岩波書店さんから出た岩波ジュニア新書の一冊。同世代かそれに近いの詩人たちの作品を取り上げています。「与謝野晶子や高村光太郎の評伝」は、『うたの心に生きた人々』。さ・え・ら書房さんから昭和42年(1967)に刊行され、後にちくま文庫(筑摩書房さん)ラインナップに入りました。与謝野晶子、光太郎、山之口貘、金子光晴の4人の評伝で、さらに平成19年(2007)、童話屋さんで4分冊として復刊し、光太郎のそれは『智恵子と生きた 高村光太郎の生涯』の題で出ています。
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晶子、光太郎、山之口貘の章は良い感じです。ただ、金子光晴のそれは、まぁ一般的にそうなので仕方がないのかも知れませんが「戦時中も反戦を貫いた」という感じの書き方になっており、実は翼賛詩文もそれなりに書いていたことに触れられていないのが残念です。どうも金子本人より取り巻きが躍起になってそれが「無かったこと」にしたいようで、そのため当方は金子の詩は眉に唾をつけないと読めません。

閑話休題、『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』、ご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

長くなりますが、溜まってしまっているのでもう1件。6月28日(日)の『毎日新聞』さん。この日は大きなニュースが無かったようで、1面トップで、さらに3面にも続く長い記事でした。

「星野リゾートの自由人」(その1) 「地域の遺産」未来につなぐ

 西洋の古城を思わせる赤レンガ造りの建物が古都・奈良に威風を放つ。明治時代に建てられた5大監獄の一つ「旧奈良監獄」(奈良市般若寺町)。東大寺や奈良公園がある奈良観光の中心から北に約2キロ、古刹(こさつ)も残る閑静な住宅街に面して異形の建築はある。
 明治政府が不平等条約解消のため、受刑者の人権にも配慮した近代国家としての有りようを欧米列強に示さんと威信をかけて建設、1908(明治41)年に完成した。半円アーチを多用するロマネスク様式が取り入れられ、5大監獄で唯一建物群がほぼ完全な形で残る。
 2017年に100年以上にわたる刑務所としての役割を終えて国の重要文化財に指定された。そして今年、この歴史的建造物は高級ホテルと博物館として生まれ変わった。
  運営するのは高級リゾートホテルの展開で知られる「星野リゾート」。 国の重要文化財としては初めて、施設所有権を国が保有したまま民間に運営を委ねるコンセッション方式の民間活用で事業が進められる。 18年に首相の施政方針演説で、観光立国推進の目玉として取り上げられた一大プロジェクトだ。
 狙いは、民間の資金やノウハウを活用して公共文化財の維持・継承を図ることだ。星野リゾートは高級ホテル「星のや奈良監獄」(48室)と「奈良監獄ミュージアム」を組み合わせて収益化することで、「地域の遺産」を未来につなぐ。
 ミュージアムでは、史料の保存・展示にとどまらず、刑務所をテーマにアートも展開する。コンセプトは「美しき監獄からの問いかけ」。規律が支配する空間で「自由」について考えを巡らす体験を提供したい――。
 画一的なホテルチェーンとは異なり、施設ごとにその地の魅力を掘り起こし、掛け合わせ、新たな価値を生み出すという星野リゾートらしさが存分に盛り込まれた。

突き動かす好奇心
  肌寒く静けさに包まれた4月上旬のある晩、赤レンガの壁沿いを一人、足早に駆ける女性がいた。月末に開業するミュージアムの館長、八十田(やそだ)香枝さん(53)。プロジェクトのカギを握る一人だ。
 向かったのは展示棟。受刑者の暮らしなどを紹介するパネル展示を何度も読み返した。日中は国の担当者との打ち合わせなど館長業務に忙殺される。夜間が八十田さんの「自習」時間だ。開業まで1カ月に迫ると「通勤時間がもったいない」と近くに部屋も借りた。 
 エネルギッシュに動き回り、人一倍声が大きい。これまで星野リゾートで20年以上、ホテルや旅館の運営に携わってきた。「星野リゾートの自由人」を自称し、その印象はまさに大阪のおばちゃんだ。
 自らを突き動かすのは好奇心。館長就任を打診された時、大阪のホテルで思い入れのあるプロジェクトを進めていたが、即断した。「監獄で働くなんて普通のサラリーマンでは経験できない」。立ち止まるより、行動あるのみ。そんな言葉が似合う半生だった。
 大阪市内の下町生まれ。両親はキタの繁華街・北新地ですし店を営み、父が大将、母がおかみさんだった。動物好きで、子どもの頃には天王寺動物園に50回以上通ったほど。動物園で働くことを夢見ていたが、中学生の時に高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」を読んでショックを受けた。
 詩にはこんな一節がある。
 〈何が面白くて駝鳥を飼うのだ。動物園の四坪半のぬかるみの中では、脚が大股すぎるぢゃないか〉
 野生で生きるはずのダチョウが動物園で自由を制限されているという詩の世界を思い涙した。飼育員ではなく、野生動物を保護する仕事を志すようになった。
 19歳の時には「アフリカの国立公園で働けないかな」と思い立ち、1人で旅立った。「母には泣かれ、おばあちゃんからは、帰ってこられないと思ったのか香典をもらいました」。アフリカでの夢はかなわなかったが国内で仕事を探し、97年、24歳で就職したのが、長野・軽井沢を拠点に野生動植物の調査やネーチャーツアーを行う自然保護団体「ピッキオ」だった。
 ピッキオは星野リゾートが92年に作った「野鳥研究室」が前身で、当時は同社の一部署。八十田さんはピッキオの森のいきもの案内人として、星野リゾートが営む軽井沢町の温泉や別荘の宿泊者に向けたガイドツアーを担当した。
 団体客を連れて森を歩き、野鳥や草木について解説。明るい性格を生かしたガイドは子供たちの心を刺戟した。ムササビの観察会をはじめ、ドラム缶風呂を用意したり、バウムクーヘンを焼いたりと体験を重視する企画に取り組んだ。
 仕事は充実していた。ただ30歳を前にある願望がこみ上げてきた。生や死、自身の生き方を真剣に考えてみたいというものだった。
 自立した活動のためには収益事業も重要だ――。野性動物の保護活動に対する星野リゾートの運営方針に違和感はなかった。
 1997年、同社が営む長野県軽井沢町の自然保護団体「ピッキオ」の職員になった八十田香枝さん(53)。野性動物を保護する仕事を志して見つけた職だったが、純粋な慈善活動や調査研究だけをするわけではない。「野鳥の森を保護するにも費用がかかる。ガイドでもうけないと事業は残らない」。商売人の家で育った八十田さんは収益源となるガイドツアーに熱心に取り組み、自然と会社の方針を体現していた。(以下略)
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星野リゾートさんが新たに手がけた奈良監獄ミュージアムさんの館長・八十田香枝氏の密着ドキュメントです。

八十田氏、元々動物好きということでしたが、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)を読んで野性動物保護の道へ。アフリカへも行き、そちらで働くことは叶わなかったものの、星野リゾートさんでそうしたお仕事に……という流れです。

引用した部分のあとにも同じ位の長さで記事が続きますが、あまりに長いので割愛します。その後、八十田氏は「お金や利益が関わらなくても動物や人のために動けるんだろうか」と自問した末、インドの病院で大地震に伴う被災ボランティアをなさったり、帰国後は沖縄や大阪で星野リゾートさんの地域進出事業の先遣隊を務めたりなさったそうです。そして現在の奈良監獄ミュージアムさんに異動。おそるべきバイタリティーです。

そういう方の転機の一端を光太郎詩が担ったというのは、ある意味恐ろしいといえば恐ろしいことと思います。一篇の詩で人生が左右されてしまう、というわけで。

明日も3件ご紹介します。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 16 『高村光太郎 宮澤賢治集』日本近代文学大系第36巻

昭和46年(1971)6月10日 角川書店 伊藤信吉解説 飛高隆夫/恩田逸夫注釈
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目次
 凡例
 解説 伊藤信吉
 高村光太郎集
 宮沢賢治集
 高村光太郎集注釈 飛高隆夫
  道程 猛獣篇
 宮沢賢治集注釈 恩田逸夫
  春と修羅 補注 『春と修羅』関係地図
 参考文献
 年譜

 月報
  高村光太郎の情念と表現のあいだ――とくに『智恵子抄』について―― 藤島宇内
  『春と修羅』のころ 福島章
  作家の筆跡 高村光太郎 宮沢賢治
  明治大正風俗語典20 槌田満文
  編集後記

収録詩篇に出てくる語の注釈が実に充実しています。光太郎の部を担当された飛高隆夫氏はこのお仕事を基にさらに発展させ、『高村光太郎『道程』全詩鑑賞』(平成21年=2009 明治書院)という書籍も出版されました。