3件ご紹介します。
掲載順に、まず6月16日(火)『毎日新聞』さん夕刊。アナウンサーの近藤サトさんの寄稿です。
大学でアナウンスの実習授業を受け持つようになって15年になります。アナウンサーや音声表現者を目指す学生の受講が主ですが、15年の間に実習内容はかなり変わりました。今年初めて導入したのは動画制作です。これまでアナウンス実習では、さまざまな声の表現を学ぶことに特化してきましたが、なぜ、本来は番組制作実習で行う動画の撮影、編集が必要になったかというと、最近は音声表現者のみならず個人の動画配信が共通認識になってきたからです。
引用されているのは光太郎最晩年の昭和31年(1956)元日発行の『新潮』に載ったエッセイ「生命の創造-アトリエにて8-」の末尾の一節です。その部分を含む最終段落のみ引用します。
いのちあるものを見るのは無限にたのしい。いのちあるものはまた無限にかなしい。このよろこびとかなしみとを定着しようとして人間は芸術といふ形に於て神をまね、神を冒した。今人間はそのいのちさへ、いのちなき物質から合成しようとしてゐる。芸術も亦大いに動乱を起して飛躍せねばならない世紀が来る。この世に芸術が生れてから幾十万年になるのか、この後人類が生きのびるのは幾千万年になるのか。芸術はどんな変貌を重ねてゆかうとするか。今日までの芸術はまだわかい。考えると目まひのするやうな今後の長い年月を思うと、今日芸術といはれてゐるやうなものが、果していつまでもその形式を持続してゆくかどうか分らない。ただどのやうな転変が行われても、芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない。人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。
旧ソ連の科学者、アレクサンドル・オパーリンが来日して「生命の起源」について講演をしたことに触発されて書かれたものですが、そこから芸術論にもってゆき、近藤さんが引用したように「芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない」と結んでいます。常に「生(ラ・ヴィ)」を芸術の絶対の価値として生きてきた光太郎、最後までそれを貫き通しました(戦時中にはぶれましたが)。
それにしても、近藤さんの文章の前半にある、昨今の大学で行われているというメディア関連の授業内容、「そんなことまで学べるんだ」と、うらやましい限りです。ただ「個人での配信」には注意が必要ですね。世の中に問うレベルに達していないもの、ガセ情報、悪意はないものの間違いだらけなど、まだまだ何でも有りの状態ですし(したがってこのブログではほとんど無視しています)、そういったものは淘汰されるのではなく逆に増えていくような気がしています。
続いて熊本の地方紙『人吉新聞』さん、6月18日(木)の一面コラム。
掲載順に、まず6月16日(火)『毎日新聞』さん夕刊。アナウンサーの近藤サトさんの寄稿です。
大学でアナウンスの実習授業を受け持つようになって15年になります。アナウンサーや音声表現者を目指す学生の受講が主ですが、15年の間に実習内容はかなり変わりました。今年初めて導入したのは動画制作です。これまでアナウンス実習では、さまざまな声の表現を学ぶことに特化してきましたが、なぜ、本来は番組制作実習で行う動画の撮影、編集が必要になったかというと、最近は音声表現者のみならず個人の動画配信が共通認識になってきたからです。 音声表現者本人による動画配信は認知度の向上に限らず、販路や業務拡大につながる可能性が十分にあります。また多くの企業が動画選考を採用しているように、動画はすでに映りたい人だけのものですらなくなりました。
その中でより効果的な動画を作るためには、声や体の表現に加え、高性能な編集アプリの使用や有効な配信のためのマーケティングも必要です。15年の間に、それら全てを一人でこなす技術が発達し、また今それができることは重要な能力だと判断しています。
その上、栄華を誇ったテレビの足元が揺らいでいるとなれば、メディアを目指す学生には転換期の後に来るものに対しての備えが不可欠です。
小中学生が将来なりたい職業ランキングでも依然、動画投稿者は人気があります。ユーチューバーがランクインしたばかりの頃、大人は「世も末か」と嘆きましたが、それもすでに過去。最近は姿や素性を明かさず、仮装のキャラクターで投稿するVチューバーが人気です。
ですが、私が今行っている実習もあと何年もしないうちに全てAIで可能になるでしょう。もちろん、声自体も生成AIが本人になり代わり発声します。実習そのものが意味を持たなくなる可能性も。
そうなったときにきっと直面するのは、芸術とは何か、美とは何か、人間とは何かという根源的な問いかもしれません。私は自分の命に限りがあるからこそ、その声の力や耀きがあると信じています。70年前、高村光太郎は「どのような転換が行われても芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかっているにちがいない」と言いました。学生を見ていると、今をどう生き、表現するかという切ない思いを感じます。
ただもし、AIが死の概念を持ち得たら、その声は「いのち」すら宿すのでしょうか?
引用されているのは光太郎最晩年の昭和31年(1956)元日発行の『新潮』に載ったエッセイ「生命の創造-アトリエにて8-」の末尾の一節です。その部分を含む最終段落のみ引用します。
いのちあるものを見るのは無限にたのしい。いのちあるものはまた無限にかなしい。このよろこびとかなしみとを定着しようとして人間は芸術といふ形に於て神をまね、神を冒した。今人間はそのいのちさへ、いのちなき物質から合成しようとしてゐる。芸術も亦大いに動乱を起して飛躍せねばならない世紀が来る。この世に芸術が生れてから幾十万年になるのか、この後人類が生きのびるのは幾千万年になるのか。芸術はどんな変貌を重ねてゆかうとするか。今日までの芸術はまだわかい。考えると目まひのするやうな今後の長い年月を思うと、今日芸術といはれてゐるやうなものが、果していつまでもその形式を持続してゆくかどうか分らない。ただどのやうな転変が行われても、芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない。人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。
旧ソ連の科学者、アレクサンドル・オパーリンが来日して「生命の起源」について講演をしたことに触発されて書かれたものですが、そこから芸術論にもってゆき、近藤さんが引用したように「芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない」と結んでいます。常に「生(ラ・ヴィ)」を芸術の絶対の価値として生きてきた光太郎、最後までそれを貫き通しました(戦時中にはぶれましたが)。
それにしても、近藤さんの文章の前半にある、昨今の大学で行われているというメディア関連の授業内容、「そんなことまで学べるんだ」と、うらやましい限りです。ただ「個人での配信」には注意が必要ですね。世の中に問うレベルに達していないもの、ガセ情報、悪意はないものの間違いだらけなど、まだまだ何でも有りの状態ですし(したがってこのブログではほとんど無視しています)、そういったものは淘汰されるのではなく逆に増えていくような気がしています。
続いて熊本の地方紙『人吉新聞』さん、6月18日(木)の一面コラム。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。明治から昭和初期に活躍した詩人・高村光太郎さんの詩集「道程」を代表する一節で、各々が歩む人生の軌跡を表しており、教科書にも採用されている▼人は誰しも母から生まれ、幼少期を経て大人となり、そして晩年を迎えて人生に終わりを告げる。だからこそ毎日を懸命に生き、後世のために何かを残し、それをまた次の世代が引き継いでいく。その繰り返しが歴史を紡いできた▼過日、ある祝宴に出席する機会があった。お祝いに駆け付けた関係者で会場は混み合い、主役との思い出話は尽きなかった。人は決して一人では生きられず、家族や他者の支えがあってこそと改めて感じた▼80歳を超えたある経営者は「自分がこの世を去ってからも人々の記憶に残り、評価されるような事業家でありたい」と思いを口にした。第一線を退いた後も全国を飛び回り、社業発展に尽くしている経営者もいる。そのバイタリティーにいつも驚かされ、その度に尊敬の念を抱いている▼決められた道を歩むのではなく、自分自身で未来を切り開く大切さを高村さんは説いた。結果以上に過程を重要視し、次につなげていきたい。
光太郎数え32歳の詩「道程」(大正3年=1914)の冒頭部分が引用されていますが、先述の最晩年の「生命の創造」における「生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう」と呼応しているようにも見えますね。
最後に宮城県の『石巻かほく』さん。昨日の記事です。
光太郎数え32歳の詩「道程」(大正3年=1914)の冒頭部分が引用されていますが、先述の最晩年の「生命の創造」における「生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう」と呼応しているようにも見えますね。
最後に宮城県の『石巻かほく』さん。昨日の記事です。
女川町は1926年の町制施行から100年を迎えた。
「まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。31年に町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎は紀行文にそう記した。
町は藩制時代の牡鹿郡女川組の20の浜が母体。海と山が迫る平地に漁村が連なった。三陸の豊かな漁場と天然の良港に恵まれ、水産の町として発展してきた。
穏やかな海は時に牙をむいた。未曽有の災害となった東日本大震災では大津波が町をのみ込んだ。あれから15年。復興を遂げた町は変わらずに海と共にある。太平洋に向かって開かれた街並みに、なりわいの音や子どもたちの声が響く。新興の気力は今に通じる。
町制施行100周年記念式典は21日午後1時半から、町生涯学習センターで開かれる。
須田善明町長インタビュー
「女川町」が誕生して100年。29代で7人目の町長である須田善明氏に、100周年を迎えた思いや未来への展望をインタビューした。(聞き手は相沢春花)
-4月に町制施行100周年を迎えた。
「戦争や東日本大震災などさまざまなことがあった。苦難に屈さず、皆さんが歩んできたからこその100年だ。これからも合併はせず、女川町であり続けたい」
-自身も女川町で生まれ育った。好きな風景や思い出は。
「震災後に立ち入れなくなったが、崎山公園から眺める景色が大好きだった。今は御殿峠から見る風景が好き。万石浦方面まで一望できる。女川駅前のプロムナードから見る日の出もいい。れんが道の向こうにまっすぐ昇る初日の出を初めて見た時は感動した」
「子どもの頃は山で遊んだ記憶ばかり。小学1年ぐらいの時に、田んぼだった場所でけがをした脚の傷は今も残っている。通っていたのは女川二小。女川一小との学区の境にあった雑貨店で、両校の児童たちが集まる空間も面白かった」
-100周年の節目を盛り上げる施策は。
「季節ごとの恒例行事をボリュームアップさせる。最大のイベントは秋に予定する音楽フェス。町民の皆さんが100周年を盛り上げるための取り組みも、町の予算でバックアップしていく」
「『結って生む』をテーマに、新型コロナウイルスの流行などで途切れたものを結い直す機会にしたい。町と関わってくれていた人たちとのつながりをもう一度結び直し、次の100年につながるものを新しく生んでいきたい」
-次の100年に向かう中で、人口減少などの課題にどう取り組むか。
「町内外から活動人口を獲得しなければならない。人的資源が限られる中、いかに地域産業を細らせずに守っていくかは大きなテーマだ」
「つまらない町に人は集まらない。行政のまちづくりは、面白いことが展開される土壌をつくること。頑張っている人、真剣に何かと向き合っている人を応援する環境が女川にはある。『女川で種を植えたい』と思ってもらえる町であり続けたい」
「ぼろぼろな駝鳥」(動物詩集) 「未曽有の時」(戦時詩集) 「某月某日」(エッセイ)
解説の「チュートリアルブック」を含め、9冊の分冊になっています。表紙はDMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」の光太郎。同ゲームとのタイアップでの出版でした。
記念イベント続々、フェスや運動会
女川町は町制施行100周年に合わせ、町民に楽しんでもらったり、町を盛り上げたりするための記念行事を企画している。恒例の祭りを拡大したものや新たに実施するイベントなどで、1年を通してさまざまな催しが町を彩る。
目玉行事は、今秋に開催を予定する音楽フェス(名称未定)。2日間の日程を予定し、町開催の音楽イベントでは過去最大となる1万人規模の来場を見込む。
1日目はロックフェス形式。2日目は幅広い年代に楽しんでもらおうと、演歌や歌謡曲などのステージも構想する。町民は無料で招待し、多彩な音楽に触れてもらう計画。
10月12日には、町民や町内で働く人を対象にした「大運動会」が開かれる。町スポーツ協会が主催し、未就学児から高齢者まで全世代がチームで楽しく競い合える競技を検討している。詳細が決まり次第、町の広報誌などで周知する。
音楽フェスと大運動会以外の記念行事の予定は次の通り。
【7月】
▽4日 町民音楽祭第1弾「スーパー銭湯アイドル『純烈』コンサート」
▽26日 おながわみなと祭り100周年記念ドローンショー
▽29~31日 サッカープレミアリーグU-11 チャンピオンシップ2026
【8月】
▽15日 タイムカプセル開封
【9月】
▽19日 地区対抗ペタンク大会
【10月】
▽25日 オリンピックデーラン
◇日程調整中
▽おながわ秋の収獲祭(10月)▽芸術鑑賞会第2弾(11月)▽おながわ冬のまつり(12月か来年1月)▽eスポーツ大会(1月)▽町民カラオケ大会(2月)▽おながわ春のまつり(3月)▽町民音楽祭第2弾(3月)
引用されている「まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」は、昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」の一節です。その前後を抜粋します。
牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つてゐる。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちてゐる。活発な魚類の取引を見てゐると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。
光太郎が訪れたのは町制施行後5年という時期でした。光太郎は女川に隣接する石巻をスタートし、主に船を使って沿岸を北上、女川以外に、金華山、気仙沼、釜石、宮古などを訪れ、全10回のイラスト入り紀行文を書きました。
その事績を記念して、平成3年(1991)に、「高村光太郎文学碑」4基が、女川港に建てられました。翌年からは光太郎がこの旅のために東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」が催されることとなり、現在も続いています。そちらは町の主催でも共催でもありませんので、上記記事の行事予定には入っていませんが、例年通り8月9日(日)に開催される予定です。今年は日曜にあたりますし、ぜひおいでください。詳細は後ほど。牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つてゐる。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちてゐる。活発な魚類の取引を見てゐると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。
光太郎が訪れたのは町制施行後5年という時期でした。光太郎は女川に隣接する石巻をスタートし、主に船を使って沿岸を北上、女川以外に、金華山、気仙沼、釜石、宮古などを訪れ、全10回のイラスト入り紀行文を書きました。
【高村光太郎書誌】
選集等(単独) 48 『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』
令和7年(2025)6月 田畑書店 高村光太郎著 大木志門編
目次「ぼろぼろな駝鳥」(動物詩集) 「未曽有の時」(戦時詩集) 「某月某日」(エッセイ)
「暗愚小伝」(連作詩) 「智恵子抄その後・典型」(戦後詩集) 「山の人々」(エッセイ)
「新しい天の火」(晩年詩集) 「文人たちの思い出」(回想集)
チュートリアルブック「戦争への道、戦争からの道」(大木志門)
解説の「チュートリアルブック」を含め、9冊の分冊になっています。表紙はDMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」の光太郎。同ゲームとのタイアップでの出版でした。





