手前味噌で恐縮ですが、執筆させていただいた書籍です。2月には出ていましたが、ようやくサイトに情報がアップされましたので、このタイミングで。
発行日 : 2026年2月28日
著者等 : 小山弘明監修
版 元 : 花巻市立高村光太郎記念館
定 価 : 1,100円(税込)
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目次
書簡[高村光太郎発、中原綾子宛]
昭和四年(一九二九)
昭和六年(一九三一) 昭和九年(一九三四) 昭和十年(一九三五)
昭和二十四年(一九四九) 昭和二十五年(一九五〇) 昭和二十六年(一九五一)
目次
書簡[高村光太郎発、中原綾子宛]
昭和四年(一九二九)
昭和六年(一九三一) 昭和九年(一九三四) 昭和十年(一九三五)
昭和十一年(一九三六) 昭和十二年(一九三七) 昭和十三年(一九三八)
昭和十四年(一九三九) 昭和十五年(一九四〇) 昭和十六年(一九四一)
昭和十七年(一九四二) 昭和十九年(一九四四) 昭和二十年(一九四五)昭和二十四年(一九四九) 昭和二十五年(一九五〇) 昭和二十六年(一九五一)
年代不明
原稿[綾子著書・主宰雑誌へ]
「惻隠」に寄す はしがき みちのく便り みちのく便り(二)
みちのく便り(三) みちのく便り
参考資料
通信事項メモ 日記 綾子「第二期明星の頃」 詩集『灰の詩』口絵 書
綾子「高村先生のお手紙」 綾子歌集『閻浮提』から
高村光太郎・中原綾子関連略年譜
昨年4月から今年2月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで4期に分けて開催された特別展「中原綾子への手紙」で展示された、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等70点ほどの全点を画像入りで紹介するものです。いつもそう書いていますが、何度見ても光太郎の文字は味があります。
中原綾子は与謝野晶子門下の歌人です。短歌以外に自由詩の詩集なども遺しています。光太郎とは大正期に与謝野家での歌会で知り合い、光太郎晩年まで断続的に交流が続きました。戦後の7年間、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)や、昭和27年(1952)に移り住んだ中野の貸しアトリエにも綾子は足を運んでいます。
書簡類は一昨年、綾子の令孫から花巻市に寄贈されました。大部分は筑摩書房『高村光太郎全集』に既出のものでしたが、一部、未収録のものも含まれていました。
すべての翻字と、それぞれの背景の解説を執筆させていただきました。『高村光太郎全集』に収める段階では、当会顧問であらせられた北川太一先生が筆写したものから活字にしたのですが、その筆写が誤っていたりするところもあったり、走り書きに近く判読に苦しむ文字があったりでした。その作業中、何だか集中力が途切れて当方も誤写し、花巻市の担当の方に「ここはこうじゃありませんか?」と指摘され、「ああ、たしかに」と訂正する箇所も多く、赤面しきりでした。
書簡の中で特筆すべきは、昭和10年(1935)前後の心を病んだ智恵子の具体的な病状を記した一連のもの。光太郎は親友だった水野葉舟にも同様の書簡を送りましたがその数は少なく、綾子にあてたものはかなりの分量です。そのため、光太郎智恵子の研究書などの類によく引用され、いわば『智恵子抄』裏面史のような感じで扱われています。
例えば、
などなど。
いわゆるジェンダー系の論者やその信奉者は、こういう内容が細かく書かれていないので詩集『智恵子抄』は嘘くさい、きれいすぎる、生身の智恵子が居ない、などとほざいています。
反論は幾らでもできます。まず、いくら「詩は心の叫びだ」などといったところで、こういう内容をわざわざ詩に細かく書く必要があるのか、ということ。
また、光太郎はもし智恵子の心の病が寛解した際、心の病に関する光太郎の文筆を読んだらどう思うだろうかということを、光太郎は気にしていました。綾子がそれを指摘し、「なるほど」と思ったようです。
「参考資料」の項には、綾子の光太郎に関する文筆も収めました。特にいいなと思ったのは、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に載った短歌。60首ほどが光太郎がらみで、旧太田村の山小屋を2度訪れた際のもの、東京にいて光太郎の詩集『典型』(昭和25年=1950)を読んで戦前を思い出した詠、そして昭和31年(1956)の光太郎の死に際しての挽歌。
いくつか引いてみます。
また、綾子詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に口絵として載った光太郎色紙の画像なども。
花巻市役所の生涯学習部生涯学習課生涯学習係さんに申し込めば送って下さるそうです。ぜひお買い求め下さい。
昭和44年(1969)、旺文社文庫版『高村光太郎詩集』を定本に、四六判で出されたものです。当時の高村記念会(現・花巻高村光太郎記念会)さんの刊行です。現在も花巻高村光太郎記念館さんで販売中です。
原稿[綾子著書・主宰雑誌へ]
「惻隠」に寄す はしがき みちのく便り みちのく便り(二)
みちのく便り(三) みちのく便り
参考資料
通信事項メモ 日記 綾子「第二期明星の頃」 詩集『灰の詩』口絵 書
綾子「高村先生のお手紙」 綾子歌集『閻浮提』から
高村光太郎・中原綾子関連略年譜
昨年4月から今年2月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで4期に分けて開催された特別展「中原綾子への手紙」で展示された、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等70点ほどの全点を画像入りで紹介するものです。いつもそう書いていますが、何度見ても光太郎の文字は味があります。
中原綾子は与謝野晶子門下の歌人です。短歌以外に自由詩の詩集なども遺しています。光太郎とは大正期に与謝野家での歌会で知り合い、光太郎晩年まで断続的に交流が続きました。戦後の7年間、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)や、昭和27年(1952)に移り住んだ中野の貸しアトリエにも綾子は足を運んでいます。
書簡類は一昨年、綾子の令孫から花巻市に寄贈されました。大部分は筑摩書房『高村光太郎全集』に既出のものでしたが、一部、未収録のものも含まれていました。
すべての翻字と、それぞれの背景の解説を執筆させていただきました。『高村光太郎全集』に収める段階では、当会顧問であらせられた北川太一先生が筆写したものから活字にしたのですが、その筆写が誤っていたりするところもあったり、走り書きに近く判読に苦しむ文字があったりでした。その作業中、何だか集中力が途切れて当方も誤写し、花巻市の担当の方に「ここはこうじゃありませんか?」と指摘され、「ああ、たしかに」と訂正する箇所も多く、赤面しきりでした。
書簡の中で特筆すべきは、昭和10年(1935)前後の心を病んだ智恵子の具体的な病状を記した一連のもの。光太郎は親友だった水野葉舟にも同様の書簡を送りましたがその数は少なく、綾子にあてたものはかなりの分量です。そのため、光太郎智恵子の研究書などの類によく引用され、いわば『智恵子抄』裏面史のような感じで扱われています。
例えば、
ちゑ子の病状悪化とで殆と寧日なく今年も既になくならうといたして居ります、ちゑ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽してゐますが連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります、何とか方法を講ずる外ないやうに存じます、
(略)
此を書いてゐるうちにも ちゑ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫して居る始末でございます、看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り 殆と寸暇もなき有様です、
(略)
此を書いてゐるうちにも ちゑ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫して居る始末でございます、看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り 殆と寸暇もなき有様です、
(昭和9年=1934 12月28日)
一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、今僅かに諸岡存博士の発熱療法といふのにたよつてゐます、もう三回注射しました、注射すると熱が四十度近く出て、其で幾分でも恢復の途につくのだといふ事です、まだ効果は見えませんが四五回はやつてみるつもりです、(昭和10年=1935 1月8日)
チヱ子は今日は又荒れてゐます、アトリエのまん中に屹立して独語と放吟の法悦状態に没入してゐます、さういふ時は食物も何もまつたくうけつけません、私はただ静かに同席して書物などよんでゐます、仕事はまつたく出来ません、(昭和10年=1935 1月22日)
チヱ子もさびしく病室に孤坐してひとり自分の妄想の中にひたりこみ、相変らず独語をくり返してゐる事でせう、先日あつた時わりに静かにはしてゐるものの、家に居る時と違つて如何にも精神病者らしい風姿を備へて来たのを見て実にさびしく感じました、まはりに愛の手の無いところに斯ういふ病人を置く事を何だか間違つた事のやうに感じました、 仕事といふ使命さへ無ければ一生をチヱ子の病気の為に捧げたい気がむらむらと起ります、チヱ子、チヱ子と家でくりかへし呼びます(昭和10年=1935 3月12日)
などなど。
いわゆるジェンダー系の論者やその信奉者は、こういう内容が細かく書かれていないので詩集『智恵子抄』は嘘くさい、きれいすぎる、生身の智恵子が居ない、などとほざいています。
反論は幾らでもできます。まず、いくら「詩は心の叫びだ」などといったところで、こういう内容をわざわざ詩に細かく書く必要があるのか、ということ。
また、光太郎はもし智恵子の心の病が寛解した際、心の病に関する光太郎の文筆を読んだらどう思うだろうかということを、光太郎は気にしていました。綾子がそれを指摘し、「なるほど」と思ったようです。
先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
小生はまるで気がつきませんでしたが智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだろうとも考へました、(昭和10年=1935 2月8日)
「先日お送りした短詩」は、初めて智恵子の心の病を謳った「人生遠視」です。
それでも少し後には結局、智恵子の心の病を中心にした詩を書いています。「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」など。白眉というべきは「値(あ)ひがたき智恵子」。
「先日お送りした短詩」は、初めて智恵子の心の病を謳った「人生遠視」です。
それでも少し後には結局、智恵子の心の病を中心にした詩を書いています。「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」など。白眉というべきは「値(あ)ひがたき智恵子」。
智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為(す)る。
智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
浅い読み方しかできない人は、この象徴的な詩句の一言一言の裏側にどれだけ深い光太郎の苦悩があるのかが見えないのでしょうね。
浅い読み方しかできない人は、この象徴的な詩句の一言一言の裏側にどれだけ深い光太郎の苦悩があるのかが見えないのでしょうね。
「参考資料」の項には、綾子の光太郎に関する文筆も収めました。特にいいなと思ったのは、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に載った短歌。60首ほどが光太郎がらみで、旧太田村の山小屋を2度訪れた際のもの、東京にいて光太郎の詩集『典型』(昭和25年=1950)を読んで戦前を思い出した詠、そして昭和31年(1956)の光太郎の死に際しての挽歌。
いくつか引いてみます。
おどろきてわれを見たまふ先生にもの言はざるは泣かざらんため
さよならと手を振りたまふ先生にべそかける顔をふりむけにけり
先生を岩手の山の一つ家に閉ぢこむる雪の都にも降る
先生のアトリエ焼けてわが知らぬ他人の家の建ちてありけり
駒込の林町二十五番地にわがなつかしき昔は残る
先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ
高村光太郎 死す てふ文字が眼に痛し氷の山に月照れるごとし
壇上に白木の柩ひとつありて森林の気は四囲をこめたり(告別式にて)
先生のアトリエ焼けてわが知らぬ他人の家の建ちてありけり
駒込の林町二十五番地にわがなつかしき昔は残る
先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ
高村光太郎 死す てふ文字が眼に痛し氷の山に月照れるごとし
壇上に白木の柩ひとつありて森林の気は四囲をこめたり(告別式にて)
また、綾子詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に口絵として載った光太郎色紙の画像なども。
花巻市役所の生涯学習部生涯学習課生涯学習係さんに申し込めば送って下さるそうです。ぜひお買い求め下さい。
【高村光太郎書誌】
選集等(単独) 43『高村光太郎詩集』
平成14年(2002)3月13日 高村記念会 高村光太郎著 北川太一編
目次
『道程』
失はれたるモナ・リザ 根付の国 声 廃頽者より 父の顔 泥七宝(抄) 友の妻
人に 涙 おそれ さびしきみち 或る宵 郊外の人に 人類の泉 よろこびを告ぐ
冬が来た 牛 道程 秋の祈 雨にうたるるカテドラル 米久の晩餐 クリスマスの夜
鉄を愛す とげとげなエピグラム(抄)
『猛獣篇』とその時代
清廉 白熊 傷をなめる獅子 鯰 象の銀行 苛察 ぼろぼろな駝鳥 象 森のゴリラ
氷上戯技 車中のロダン 火星が出てゐる 冬の奴 花下仙人に遇ふ 母をおもふ
冬の言葉 当然事 さういふ友 上州湯桧曽風景 孤独が何で珍らしい 刃物を研ぐ人
耳で時報をきく夜 レオン ドウベル もう一つの自転するもの ばけもの屋敷 荻原守衛
堅冰いたる 手紙に添へて 孤坐 つゆの夜ふけに お化け屋敷の夜
銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧 蝉を彫る 独居自炊 美しき落葉
『智恵子抄』
樹下の二人 あなたはだんだんきれいになる あどけない話 同棲同類
美の監禁に手渡す者 人生遠視 山麓の二人 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 梅酒 松庵寺 元素智恵子
メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白
『典型』
雪白く積めり 「ブランデンブルグ」 人体飢餓 月にぬれた手 山荒れる 典型
クチバミ 大地うるはし 十和田湖畔の裸像に与ふ 弦楽四重奏 生命の大河
年譜
昭和44年(1969)、旺文社文庫版『高村光太郎詩集』を定本に、四六判で出されたものです。当時の高村記念会(現・花巻高村光太郎記念会)さんの刊行です。現在も花巻高村光太郎記念館さんで販売中です。
手元にあったはずなのですが見当たりませんで、失念しておりました。






