学会のご案内です。
光太郎と武郎とのつながりのうち最も有名なのが、大正12年(1912)に光太郎のブロンズ代表作「手」を武郎が入手した(戦後の光太郎日記では「有島武郎氏に進呈」と書かれています)こと。その際の武郎から光太郎宛の書簡が『有島武郎全集』に収められています。
今日は御制作「手」を態々お届け下さいまして難有う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋にかざつて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。「手」といふ題で感想を書いて見たいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。不取敢御礼迄。
余談ですが、この書簡、大正13年(1924)に叢文閣から最初に出た『有島武郎全集』では「手」を「牛」とするとんでもない誤植があります。冒頭部分が「今日は御制作「牛」を態々お届け下さいまして……」となっているのです。「まさかそれを真に受けて書いてるものは無いだろう」と思って調べたところ、残念ながらありました。しかも「牛」のイラスト入りで。頭を抱えてしまいました。
光太郎が東京美術学校で明治35年(1902)に彫刻科を卒業し、研究科に残ったあと、明治38年(1905)に入り直した西洋画科で同級生だった望月桂が、大杉栄らとともに立ち上げた「黒耀会」がメインで取り上げられます。足立氏、昨年、埼玉県東松山市の丸木美術館さんで開催され、現在、信州安曇野市の安曇野文書館さんで開催中の「望月桂 自由を扶くひと」展に深く関わられたようです。
「高村光太郎も黒耀会展に参加していた」とありますが、『高村光太郎全集』別巻の年譜では大正10年(1921)の項に「十二月二十日~二十三日、神田駿河台倶楽部で開催された黒耀会第三回展覧会に、島崎藤村の書、有島武郎の写経などと共に、ブロンズの「手」を出品する。プロレタリア美術運動の初期を飾るこの会の中心だったのは、洋画科に再入学した時の同級生望月桂だった」とあります。
この「黒耀会」と光太郎の繋がりが、今一つ詳しくわかっていません。第一回展が大正9年(1920)4月に牛込築土八幡停留所前の骨董店で、第二回展は大正10年(1921)の11月24日(23日とする文献も)から5日間、京橋の星製薬(星新一の父・星一が社主)で開催されましたが、そちらには光太郎の出品はなかったようです。
大杉が関わっていたからでしょう、第二回展は官憲の介入があり、初日に警視庁の検閲係長、特高課長等が会場を封鎖して検閲、20点あまりの出品作が撤去されるという事件がありました。治安維持法が施行されるのはまだ先ですが、既にそれに近い措置は行われていたようです。
そしてすぐ行われた第三回展で、光太郎が「手」を出品したわけです。おそらくこの時の「手」が、のちに武郎に進呈されたのだと思われます。また、結局は断られましたが、やはり大正10年(1921)には大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に「手」を寄贈したいと申し出たことがあったそうです。のち、ゴリゴリの大政翼賛に転じる光太郎ですが、この頃はアナーキズム・プロレタリア系のシンパ的な立ち位置でした。
武郎の死後、この「手」は武郎と親しかった秋田雨雀の手を経て、現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収蔵されています。
さて、その黒耀会がらみということで、ぜひ拝聴したかったのですが先約があり、うかがえません。可能な方、ぜひどうぞ。
昭和33年(1958)に完結した第一次『高村光太郎全集』(筑摩書房)に漏れていた光太郎書簡の集成です。平成8年(1996)に刊行された増補版の『高村光太郎全集』第21巻にすべて収録され直すことになります。ただ、その後も600通ほどの書簡が見つかり続けています。つい最近もまた1通みつけました。
有島武郎研究会 第 79 回 全国大会(ハイブリッド開催) 特集『白樺』派と〈美術史〉の転回 -〈民藝〉と〈アナーキズム〉の視座から-
期 日 : 2026年6月6日(土)
会 場 : 二松学舎大学九段キャンパス4号館6階 4061教室 千代田区三番町6-16
Zoomによるオンライン
Zoomによるオンライン
時 間 : 12:40開会
料 金 : 無料
有島武郎と光太郎は、『白樺』を通じての交流がありましたし、有島の実弟・生馬と光太郎は留学仲間でもありました。むしろ武郎より生馬の方が光太郎に近かったと言えるでしょう。===プログラム===(総合司会)石井 花奈
12:40 開会の辞 佐藤晋(二松学舎大学学長)
12:50〜14:00 《研究発表》
武者小路実篤における戦後作品 ——原爆のあとの「真理先生」——鳥海菜緒
〈分身〉の諸相 —有島武郎個人雑誌『泉』における小説表現の一側面
—阿部高裕
14:00〜14:20 休憩
14:20~17:00 《特集『白樺』派と<美術史>の転回 〈民藝〉と<アナーキズム>の視座から》
(司会)村田裕和
14:20~17:00 《特集『白樺』派と<美術史>の転回 〈民藝〉と<アナーキズム>の視座から》
(司会)村田裕和
14:25~15:40 【報告】 文士たちの黒耀会 足立元
有島武郎のアナーキズムにつながる美術への視座 三田憲子
柳宗悦における「社会美」とは何か—民藝運動と共同体をめぐって
— 梶谷崇
15:40〜16:00 休憩・質問募集
16:00〜17:00 【討議】
17:00 閉会の辞 梶谷崇(有島武郎研究会会長)
光太郎と武郎とのつながりのうち最も有名なのが、大正12年(1912)に光太郎のブロンズ代表作「手」を武郎が入手した(戦後の光太郎日記では「有島武郎氏に進呈」と書かれています)こと。その際の武郎から光太郎宛の書簡が『有島武郎全集』に収められています。
今日は御制作「手」を態々お届け下さいまして難有う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋にかざつて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。「手」といふ題で感想を書いて見たいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。不取敢御礼迄。
余談ですが、この書簡、大正13年(1924)に叢文閣から最初に出た『有島武郎全集』では「手」を「牛」とするとんでもない誤植があります。冒頭部分が「今日は御制作「牛」を態々お届け下さいまして……」となっているのです。「まさかそれを真に受けて書いてるものは無いだろう」と思って調べたところ、残念ながらありました。しかも「牛」のイラスト入りで。頭を抱えてしまいました。
頓珍漢ついでにもう1件。以前にも書きましたが、橋爪健というマイナーな作家が書いた『文壇残酷物語』(昭和39年=1964)という、有島や光太郎を含む数人の作家のゴシップ的な評伝集があります。そこに、「手」のモデルが自分の手だと有島が語った場面があり、以前はそれを真に受けて「「手」は有島の手がモデルである」と堂々と書いた修士論文だか博士論文だかがネット上で見られる状態でした。ネット上に出ていたということは、それが通ってしまったのでしょうね。
武郎書簡にある「「手」といふ題で感想を書いて見たい」は、武郎の個人誌『泉』の第2巻第4号(大正12年=1923)に発表された「手 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)」という詩。
結局、この直後に武郎は自裁してしまうわけなのですが……。
閑話休題。
今回の研究会のうち、美術史家の足立元氏によるご発表が「文士たちの黒耀会」。公式サイトに「発表要旨」が出ています。
武郎書簡にある「「手」といふ題で感想を書いて見たい」は、武郎の個人誌『泉』の第2巻第4号(大正12年=1923)に発表された「手 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)」という詩。
結局、この直後に武郎は自裁してしまうわけなのですが……。
閑話休題。
今回の研究会のうち、美術史家の足立元氏によるご発表が「文士たちの黒耀会」。公式サイトに「発表要旨」が出ています。
一九一九年末にアナキスト画家の望月桂を中心に結成された黒耀会は、革命と芸術の一致を目指し、美術、文学、音楽、演劇、社会運動など多彩な領域の者たちが参加した。その活動は、アンデパンダン形式の展覧会にとどまらず、演劇や音楽会にも展開した。本発表では、文学史に関する事柄を中心に、新たな資料群の発見によって現れたいくつもの謎や未解決の課題を整理する。そして、黒耀会を通して浮かび上がる、この時の文士(文学者)たちが振る舞った異例のあり方について考えてみたい。
黒耀会の謎は、そこに参加した有名な文士たちが誰で、どのような絵や書を発表したのかである。有島武郎と加藤一夫については望月との合作がある。北原白秋の短冊も残る。望月の回想の他に裏付けはないが、中里介山、島崎藤村、高村光太郎も黒耀会展に参加していた。一九二一年の第三回黒耀会展は、民衆芸術展として開催したが、当時の記事によれば、武者小路実篤、与謝野鉄幹・晶子、長谷川如是閑らが出品していた。このように、黒耀会を通じて、当時の文壇とは別の文士たちのネットワークが浮かび上がる。当然それぞれの関わりに濃淡はあったにしても、アナキズムとの関わりにおいて当時の文学作品を捉え返すことも可能だろう。
文士たちは、黒耀会展において、書や手書きの詩の短冊、あるいは画家との合作を並べていた。それは詩書画の一致という文人の理想像に重なるものであり、いわば近代の文士から近世の文人へと遡る振る舞いであったといえる。そのような意味で、当時の文士たちにとって黒耀会は新しくなかったし、むしろ自然で原初的な場だっただろう。だが今日から見るならば、黒耀会は、「文学」が活字の文字から解放され、パフォーマティブな総合芸術の一部となった先駆として評価することができる。
「高村光太郎も黒耀会展に参加していた」とありますが、『高村光太郎全集』別巻の年譜では大正10年(1921)の項に「十二月二十日~二十三日、神田駿河台倶楽部で開催された黒耀会第三回展覧会に、島崎藤村の書、有島武郎の写経などと共に、ブロンズの「手」を出品する。プロレタリア美術運動の初期を飾るこの会の中心だったのは、洋画科に再入学した時の同級生望月桂だった」とあります。
この「黒耀会」と光太郎の繋がりが、今一つ詳しくわかっていません。第一回展が大正9年(1920)4月に牛込築土八幡停留所前の骨董店で、第二回展は大正10年(1921)の11月24日(23日とする文献も)から5日間、京橋の星製薬(星新一の父・星一が社主)で開催されましたが、そちらには光太郎の出品はなかったようです。
大杉が関わっていたからでしょう、第二回展は官憲の介入があり、初日に警視庁の検閲係長、特高課長等が会場を封鎖して検閲、20点あまりの出品作が撤去されるという事件がありました。治安維持法が施行されるのはまだ先ですが、既にそれに近い措置は行われていたようです。
そしてすぐ行われた第三回展で、光太郎が「手」を出品したわけです。おそらくこの時の「手」が、のちに武郎に進呈されたのだと思われます。また、結局は断られましたが、やはり大正10年(1921)には大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に「手」を寄贈したいと申し出たことがあったそうです。のち、ゴリゴリの大政翼賛に転じる光太郎ですが、この頃はアナーキズム・プロレタリア系のシンパ的な立ち位置でした。
武郎の死後、この「手」は武郎と親しかった秋田雨雀の手を経て、現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収蔵されています。
さて、その黒耀会がらみということで、ぜひ拝聴したかったのですが先約があり、うかがえません。可能な方、ぜひどうぞ。
【高村光太郎書誌】
選集等(単独) 26 『高村光太郎資料 第二集』全集補遺Ⅱ
明治三十二年(一八九九)頃 明治三十三年(一九〇〇) 明治三十八年(一九〇五)
明治三十九年(一九〇六) 明治四十年(一九〇七) 明治四十二年(一九〇九)
明治四十三年(一九一〇) 大正元年(一九一二) 大正三年(一九一四)
大正五年(一九一六) 大正九年(一九二〇) 大正十年(一九二一)
大正十一年(一九二二) 大正十二年(一九二三) 大正十三年(一九二四)
大正十一年(一九二二) 大正十二年(一九二三) 大正十三年(一九二四)
大正十四年(一九二五) 大正十五年・昭和元年(一九二六) 大正期年代不詳
昭和二年(一九二七) 昭和三年(一九二八) 昭和五年(一九三〇)
昭和六年(一九三一) 昭和八年(一九三三) 昭和九年(一九三四)
昭和十年(一九三五) 昭和十二年(一九三七) 昭和十三年(一九三八)
昭和十四年(一九三九) 昭和十五年(一九四〇) 昭和十六年(一九四一)
昭和十八年(一九四二) 昭和十九年(一九四四) 昭和二十年(一九四五)
昭和二十一年(一九四六) 昭和二十二年(一九四七) 昭和二十三年(一九四八)
昭和二十四年(一九四九) 昭和二十五年(一九五〇)
昭和二十六年(一九五一) 昭和二十七年(一九五二) 昭和二十八年(一九五三)
昭和三十年(一九五五)
書簡索引
後記
昭和33年(1958)に完結した第一次『高村光太郎全集』(筑摩書房)に漏れていた光太郎書簡の集成です。平成8年(1996)に刊行された増補版の『高村光太郎全集』第21巻にすべて収録され直すことになります。ただ、その後も600通ほどの書簡が見つかり続けています。つい最近もまた1通みつけました。







