5月12日(火)の『朝日新聞』さん夕刊に光太郎の名。京橋のアーティゾン美術館さんで開催中の「クロード・モネ —風景への問いかけ」展がらみで、同館の母体である公益財団法人石橋財団さんの特別助成を受け、日仏美術学会さんの主催で4月25日(土)に開催された「日仏シンポジウム クロード・モネ、新たな研究の地平」のレポート的な記事でした。この部分の前にアーティゾンさんの「クロード・モネ —風景への問いかけ」展の紹介記事が入っていましたが、長くなりすぎるので割愛します。
東京都内では4月25日、日仏シンポジウム「クロード・モネ、新たな研究の地平」(日仏美術学会主催)も開かれ、既存イメージと異なるモネ像が示された。
アーティゾン美術館のモネ展を監修したオルセー美術館のシルヴィ・パトリ主任学芸員は基調講演で、セザンヌの「モネは目にすぎない。しかし、なんと素晴らしい目なのか」という言葉をひき、理知的と見られにくかったと指摘した。
鳥が歌うように描きたいとモネ自身が語ったため、即興性の強い作品と見られがちだったという。さらに印象派の呼称の起源になった「印象、日の出」(1872年)を描いたことで感覚的だとみなされたという。
同時に、「印象」というのは現実へのアプローチ、再構成であり、例えば人物画でも風景のように描いたと話した。ブーダンらの影響にも触れ、「モネの『目』は獲得された成果であって、偉大な芸術家との出会いと対話から生まれた」と、展覧会同様、時代と社会に位置づけて論じた。
「日本においてモネはどう語られたか?」と題して語った日本女子大の馬淵明子・名誉教授は、1900~70年代の文献を分析した結果、かつてはモネの国内評価は高くなかった、という今から見ると信じがたい状況を報告した。
例えば、詩人・彫刻家の高村光太郎は15年に「感覚の画家」「思索の無い」と指摘。セザンヌらポスト印象派の画家の思索や精神性を高く評価する視点といい、パトリさんの講演とも符合。50年代から再評価が見られ、70年代になって美術評論家の峯村敏明氏が革命性を認めるように。その評価の遅さを指摘した。
このほか、国家的な評価の生まれ方などについて報告が続いた。
引用されている光太郎のモネ評「感覚の画家」「思索の無い」は、大正4年(1915)に書き下ろしで天弦堂書房から刊行された光太郎の美術評論『印象主義の思想と芸術』中の「三 クロード モネ(附 新印象派画家)」が出典です。
これも全文を引くと長いので、抜粋で。まず章の冒頭部分。
モネを語る事は技巧を語る事である。モネを評する批評家は皆彼を「風景画の抒情詩人」だといふ。私も此の比喩を拒まない。彼が風景の感情を読んだといふ意味に於てである。けれども彼の感情は平俗の感情である。万人の常に感じる感情よりも高い、若しくは美しい感情といふわけでは無い。彼は其の感情を問題としないで、其の感情を如何に現はすかを問題とした。彼にとつては其の感情も一つの客観である。対象である。此の意味で彼は技巧の鋭い描写家である。此の方が真に近いと私は信ずる。彼の絵画に於ける描写は、ゴンクールの小説に於ける描写に酷似してゐる。其は物を輪郭づけないで、物に学んだ印象をそのまま捕捉する処にある。そして捕捉したものを現はすに目のくらむ様な錦繍の技巧を以てした処にある。そして又其の印象の底に常に或る理法の巌存する事を明らかに意識してゐた処にある。おまけに其の神経感覚の人並み外れて微に入り細を穿つ力を持つて居た処にある。描写は似てゐるが、描写された常体はちがふ。此小説家は明らかに厭世家であつたが、モネは楽天家であつた。楽天家といふよりも唯光明の讃美家であつた。
この後、簡略なモネの評伝が続き、まとめにかかった部分。
彼は後に印象派的技巧と目される程の技巧を皆持つてゐる。むしろ其等は彼が創り出したのである。単色使用、色調区分、盛上げ、下瞰的構図、視野の狭窄、筆触の強調等である。そして風景の外に多くの静物と少数の人物とを画いてゐる。彼は印象派展覧会には大抵出品してゐたが、一八八〇年には「現代の生活」社の主催で独立展覧会をやり、一八八九年にはジヨーヂ プチでロダンの彫刻と一緒に展覧会を開いて百四十五枚並べた。彼は其頃から社会的にも認められて来て、漸く経済的安定を得た。後にレジヨン ドヌールに叙勲される処だつたのを彼は謝絶した。六七年前はヹニスに居たが、今は何処に居るか私は知らない。
彼の製作は無数である。彼の製作の性質が特に一二のものに際立つた集中力を寄せるよりも連続して無数に書き棄てて行く可きものであるからである。彼は全く眼の画家である。感覚の画家である。そして自然の「現象」に傾倒して、其外何も思はなかつた画家である。思索の無い彼の画に精神的潜力の無いのは怪しむに足らぬ。彼は十九世紀末に於ける人間の一度はきつと行く可き処を代表して行つた人間である。彼は時代の進化動力にそそのかされた時代の子である。自然は彼を見て彼を安撫してゐるだらう。彼は人類の為めに或る経験を教へた。彼はそれだけでよい。
決してモネを認めていないわけではなく、もしろパイオニアとしての彼を高く評価していることが窺えます。ただ、その後、モネの切り開いた道をさらに深化させていったセザンヌらポスト印象派の方により強く惹かれていたのも事実です。この点は一人光太郎に限らず、光太郎がパリに滞在していた20世紀初頭の潮流でもありました。極論すれば、その時点で「モネはもう古い」という感覚だったのでしょう。
実際、明治42年(1909)の帰朝後の光太郎は、父・光雲との確執から日本彫刻界とは距離を置き、ほとんど油絵画家と言っていい時期があり、その頃描いていた絵(中村屋サロン美術館さん所蔵の「自画像」など)は特にフォービズムに影響を受けたものでした。これも一人光太郎に限らず、岸田劉生やら梅原龍三郎やらもそうだったはずです。ただ、文展を中心としたアカデミズム系の画家たちはまだモネの受容にすら辿りついてなかったと思われます。
日本人はモネが大好きですね。しかし、モネが幅広く受容されるようになったのは、'70年代に入ってからだったというのは少し意外でした。その半世紀前に、光太郎らは既にモネを通り越していたわけで、そのあたりの先進性には舌を巻かざるを得ないな、と改めて感じました。ただし、何でもかんでも新しい物がよいという感覚でもなかったわけで、そこに「生(ラ・ヴィ)」が感じられないものは認められない、という姿勢もありましたし、古典的なものでもいいものはいいというスタンスでした。そのあたりのバランス感覚は、見習いたいものだと改めて感じました。
東京都内では4月25日、日仏シンポジウム「クロード・モネ、新たな研究の地平」(日仏美術学会主催)も開かれ、既存イメージと異なるモネ像が示された。アーティゾン美術館のモネ展を監修したオルセー美術館のシルヴィ・パトリ主任学芸員は基調講演で、セザンヌの「モネは目にすぎない。しかし、なんと素晴らしい目なのか」という言葉をひき、理知的と見られにくかったと指摘した。
鳥が歌うように描きたいとモネ自身が語ったため、即興性の強い作品と見られがちだったという。さらに印象派の呼称の起源になった「印象、日の出」(1872年)を描いたことで感覚的だとみなされたという。

同時に、「印象」というのは現実へのアプローチ、再構成であり、例えば人物画でも風景のように描いたと話した。ブーダンらの影響にも触れ、「モネの『目』は獲得された成果であって、偉大な芸術家との出会いと対話から生まれた」と、展覧会同様、時代と社会に位置づけて論じた。
「日本においてモネはどう語られたか?」と題して語った日本女子大の馬淵明子・名誉教授は、1900~70年代の文献を分析した結果、かつてはモネの国内評価は高くなかった、という今から見ると信じがたい状況を報告した。
例えば、詩人・彫刻家の高村光太郎は15年に「感覚の画家」「思索の無い」と指摘。セザンヌらポスト印象派の画家の思索や精神性を高く評価する視点といい、パトリさんの講演とも符合。50年代から再評価が見られ、70年代になって美術評論家の峯村敏明氏が革命性を認めるように。その評価の遅さを指摘した。このほか、国家的な評価の生まれ方などについて報告が続いた。
引用されている光太郎のモネ評「感覚の画家」「思索の無い」は、大正4年(1915)に書き下ろしで天弦堂書房から刊行された光太郎の美術評論『印象主義の思想と芸術』中の「三 クロード モネ(附 新印象派画家)」が出典です。
これも全文を引くと長いので、抜粋で。まず章の冒頭部分。
モネを語る事は技巧を語る事である。モネを評する批評家は皆彼を「風景画の抒情詩人」だといふ。私も此の比喩を拒まない。彼が風景の感情を読んだといふ意味に於てである。けれども彼の感情は平俗の感情である。万人の常に感じる感情よりも高い、若しくは美しい感情といふわけでは無い。彼は其の感情を問題としないで、其の感情を如何に現はすかを問題とした。彼にとつては其の感情も一つの客観である。対象である。此の意味で彼は技巧の鋭い描写家である。此の方が真に近いと私は信ずる。彼の絵画に於ける描写は、ゴンクールの小説に於ける描写に酷似してゐる。其は物を輪郭づけないで、物に学んだ印象をそのまま捕捉する処にある。そして捕捉したものを現はすに目のくらむ様な錦繍の技巧を以てした処にある。そして又其の印象の底に常に或る理法の巌存する事を明らかに意識してゐた処にある。おまけに其の神経感覚の人並み外れて微に入り細を穿つ力を持つて居た処にある。描写は似てゐるが、描写された常体はちがふ。此小説家は明らかに厭世家であつたが、モネは楽天家であつた。楽天家といふよりも唯光明の讃美家であつた。
この後、簡略なモネの評伝が続き、まとめにかかった部分。
彼は後に印象派的技巧と目される程の技巧を皆持つてゐる。むしろ其等は彼が創り出したのである。単色使用、色調区分、盛上げ、下瞰的構図、視野の狭窄、筆触の強調等である。そして風景の外に多くの静物と少数の人物とを画いてゐる。彼は印象派展覧会には大抵出品してゐたが、一八八〇年には「現代の生活」社の主催で独立展覧会をやり、一八八九年にはジヨーヂ プチでロダンの彫刻と一緒に展覧会を開いて百四十五枚並べた。彼は其頃から社会的にも認められて来て、漸く経済的安定を得た。後にレジヨン ドヌールに叙勲される処だつたのを彼は謝絶した。六七年前はヹニスに居たが、今は何処に居るか私は知らない。
彼の製作は無数である。彼の製作の性質が特に一二のものに際立つた集中力を寄せるよりも連続して無数に書き棄てて行く可きものであるからである。彼は全く眼の画家である。感覚の画家である。そして自然の「現象」に傾倒して、其外何も思はなかつた画家である。思索の無い彼の画に精神的潜力の無いのは怪しむに足らぬ。彼は十九世紀末に於ける人間の一度はきつと行く可き処を代表して行つた人間である。彼は時代の進化動力にそそのかされた時代の子である。自然は彼を見て彼を安撫してゐるだらう。彼は人類の為めに或る経験を教へた。彼はそれだけでよい。
決してモネを認めていないわけではなく、もしろパイオニアとしての彼を高く評価していることが窺えます。ただ、その後、モネの切り開いた道をさらに深化させていったセザンヌらポスト印象派の方により強く惹かれていたのも事実です。この点は一人光太郎に限らず、光太郎がパリに滞在していた20世紀初頭の潮流でもありました。極論すれば、その時点で「モネはもう古い」という感覚だったのでしょう。
実際、明治42年(1909)の帰朝後の光太郎は、父・光雲との確執から日本彫刻界とは距離を置き、ほとんど油絵画家と言っていい時期があり、その頃描いていた絵(中村屋サロン美術館さん所蔵の「自画像」など)は特にフォービズムに影響を受けたものでした。これも一人光太郎に限らず、岸田劉生やら梅原龍三郎やらもそうだったはずです。ただ、文展を中心としたアカデミズム系の画家たちはまだモネの受容にすら辿りついてなかったと思われます。
日本人はモネが大好きですね。しかし、モネが幅広く受容されるようになったのは、'70年代に入ってからだったというのは少し意外でした。その半世紀前に、光太郎らは既にモネを通り越していたわけで、そのあたりの先進性には舌を巻かざるを得ないな、と改めて感じました。ただし、何でもかんでも新しい物がよいという感覚でもなかったわけで、そこに「生(ラ・ヴィ)」が感じられないものは認められない、という姿勢もありましたし、古典的なものでもいいものはいいというスタンスでした。そのあたりのバランス感覚は、見習いたいものだと改めて感じました。
【高村光太郎書誌】
選集等(単独) 19 『高村光太郎詩集』ポケット版・日本の詩人7
昭和43年(1968)2月15日 河出書房 高村光太郎著
目次
あたり前
全18巻の「日本の詩人」シリーズの1冊です。巻末の草野心平による「大いなる手――高村光太郎の人間像――」は「伝記小説」と位置づけられ、40ページほどの長いもので、最も光太郎の近くにいた文学者であった心平の本領が発揮されたものです。
目次
あたり前
道程
根付の国 あをい雨 犬吠の太郎 さびしきみち 戦闘 山 秋の祈 冬が来た 牛
道程 歩いても 湯ぶねに一ぱい 小娘 冬の子供 雨にうたるるカテドラル
道程 歩いても 湯ぶねに一ぱい 小娘 冬の子供 雨にうたるるカテドラル
とげとげなエピグラム
猛獣篇
傷をなめる獅子 苛察 雷獣 ぼろぼろな駝鳥 象 森のゴリラ 後庭のロダン
蝉を彫る 葱 感謝 ミシエル オオクレエルを読む 火星が出てゐる 無題 母をおもふ
蝉を彫る 葱 感謝 ミシエル オオクレエルを読む 火星が出てゐる 無題 母をおもふ
当然事 或る日 五月のウナ電 晴天に酔ふ
智恵子抄
人類の泉 人に 深夜の雪 冬の朝のめざめ 晩餐 樹下の二人
あなたはだんだんきれいになる あどけない話 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
あなたはだんだんきれいになる あどけない話 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
レモン哀歌 亡き人に 裸形
典型
典型 人体飢餓 雪白く積めり 月にぬれた手 暗愚小伝 クチバミ
大いなる手――高村光太郎の人間像―― 草野心平
年譜
全18巻の「日本の詩人」シリーズの1冊です。巻末の草野心平による「大いなる手――高村光太郎の人間像――」は「伝記小説」と位置づけられ、40ページほどの長いもので、最も光太郎の近くにいた文学者であった心平の本領が発揮されたものです。


