北鎌倉から句集が届きました。光太郎のすぐ下の妹・静子(しづ)が詠んだ句を集めたものです。静子令孫にして彼の地でカフェ兼ギャラリー「笛」を切り盛りなさっている山端加寿子様よりの贈り物です。ありがたし。
目 次 :
口絵 写真 山端家の庭にて 1951年(昭和26年)8月12日
山端静子より高村光太郎宛書簡 昭和22年(1947)7月12日
祖母・山端静子と過ごした日々 山端加寿子
明月谷
解説・谷の年代記 石黒敦彦
薯版静子句抄
静子(しづ)は光太郎の3歳下で、智恵子と同じ明治19年(1886)生まれ。髙村家次男たる道利と双子でした。
左から道利、静子、光雲、光雲に抱かれている三男・豊周、そして光太郎。光太郎の上に姉が二人いましたが、いずれも早世しています。
静子は明治37年(1904)頃、印刷業などをしていた山端寅三と結婚、戦前は現在の幡ヶ谷あたりに居住、寅三は当時の豊多摩郡代々幡町議会議員なども務めました。ちなみに寅三は光太郎の義弟ということになりますが、明治11年(1878)の生まれで、同16年(1883)出生の光太郎より年長でした。
戦災の関係もあって、山端家は戦後の昭和22年(1947)、北鎌倉明月谷に移転、静子は昭和34年(1959)に亡くなるまで彼の地に暮らし続けました。その間に令孫・加寿子様がお生まれになっています。
静子は、北鎌倉移転後、鶴ヶ岡八幡宮に近い杉本寺の住職も勤めた僧侶にして俳人の尾崎迷堂に師事、本格的に句作に取り組むようになりました。迷堂は水原秋桜子の系譜に連なり、句誌『えから』『ぬなは』などを主宰していました。
その句会が山端邸で行われたこともあったようです。平野たまみ氏「俳人・尾崎迷堂の研究(二)――その生涯と事蹟を辿る――」(『愛媛国文と教育』第14・15合併号 昭和58年 愛媛大学教育学部国語国文学会)中の、昭和26年(1951)の項から。
迷堂の還暦祝賀会は、八月十九日、鎌倉市明月院谷戸にある山端静子居で行われた。山端静子は、「えから」時代からの迷堂の門人である。高村光太郎の実妹である彼女は、迷堂庵にもよく出入りしているが、そこでの会話は、俳句の事以上に、兄や兄嫁智恵子の話が多かったらしい。
帰り花智恵子のことも聞かせけり 迷堂(昭和三五・一二“悼山端静子さん”より)
からも伺う事ができる。
さて、『明月谷』。静子の句が100句近くまとめられています。昭和22年(1947)頃から亡くなった同34年(1959)までのもの。静子64歳から76歳となっています(若干、年齢の換算が合っていないような気がしますが)。「抄」と冠されていますので、選集的な。加寿子様の撰です。
彼の地の風物を思い起こさせ、しみじみとさせられる句、思わずくすりとさせられる句など、さまざまですが、全体にかなり自由闊達に詠まれています。寡聞にして存じませんが、師の尾崎迷堂がそうだったのでしょうか、季重なりなど気にしていない句も目立ちます。
昭和31年(1956)4月2日、実兄の光太郎が没しましたが、その折と思われる句も。
雪を着て一輪椿落ちにけり
あな悲し永久の別れの卯月とは
悲しみを更に大裸像冴え返る
玉の緒のたえて兄妹春永久に
「雪を着て」は光太郎の没した日が季節外れの春の大雪だったことにちなみます。「大裸像」はアトリエにその石膏原型が遺されていた光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。繰り返される「永久」の語はこの場合「とわ」と読むのでしょう。
他にも後年、光太郎忌日・連翹忌に題を採った句も。
連翹や亡兄の好む黄の佳けれ
その他、夫の寅三が亡くなった際の句や、令孫・加寿子様を詠んだ句、上記の尾崎迷堂還暦句会の詠なども。
本文以外に、別刷り無綴じで、お近くにお住まいだという版画家の山室眞二氏の手になる薯版によるカード的な感じで8葉。上記「雪を着て……」の句も含まれていました。
静子句の前後には、加寿子様による「祖母・山端静子と過ごした日々」、やはりお近くにお住まいで光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏による解説が附され、理解の手助けとなっています。
それらによれば、尾崎喜八がすぐ近所に引っ越してきたのは本当に偶然だったそうで、それも昭和41年(1966)。したがってこの地で喜八と静子が顔を合わせることはなかったそうです。また、「明月谷」のタイトルで分かる通り、山端家、尾崎家ともあじさい寺として有名な明月院さんと同じ谷戸ですが、そのアジサイは喜八の進言で植えられ始めたとのこと。それは存じませんでした。喜八の墓は明月院さんにあります(通常非公開)。また、やはりこの地で暮らし、光太郎と交流のあった詩人・伊藤海彦などとの縁についても。
同封されていたカフェ兼ギャラリー「笛」さんの案内フライヤー画像を載せておきます。毎年秋には光太郎・喜八展的な展示が為され、近年はその一環で朗読会も行われています。今年も予定に入っているようです。
ご興味おありの方、ぜひ「笛」さんに足をお運び下さい。
発行日 : 2026年4月2日
著者等 : 山端静子 著 山端加寿子 撰 石黒敦彦 解説 薯版画/装幀 山室眞二
版 元 : シンジュサン工房
定 価 : 非売
目 次 :
口絵 写真 山端家の庭にて 1951年(昭和26年)8月12日
山端静子より高村光太郎宛書簡 昭和22年(1947)7月12日
祖母・山端静子と過ごした日々 山端加寿子
明月谷
解説・谷の年代記 石黒敦彦
薯版静子句抄
静子(しづ)は光太郎の3歳下で、智恵子と同じ明治19年(1886)生まれ。髙村家次男たる道利と双子でした。

静子は明治37年(1904)頃、印刷業などをしていた山端寅三と結婚、戦前は現在の幡ヶ谷あたりに居住、寅三は当時の豊多摩郡代々幡町議会議員なども務めました。ちなみに寅三は光太郎の義弟ということになりますが、明治11年(1878)の生まれで、同16年(1883)出生の光太郎より年長でした。
戦災の関係もあって、山端家は戦後の昭和22年(1947)、北鎌倉明月谷に移転、静子は昭和34年(1959)に亡くなるまで彼の地に暮らし続けました。その間に令孫・加寿子様がお生まれになっています。
静子は、北鎌倉移転後、鶴ヶ岡八幡宮に近い杉本寺の住職も勤めた僧侶にして俳人の尾崎迷堂に師事、本格的に句作に取り組むようになりました。迷堂は水原秋桜子の系譜に連なり、句誌『えから』『ぬなは』などを主宰していました。
その句会が山端邸で行われたこともあったようです。平野たまみ氏「俳人・尾崎迷堂の研究(二)――その生涯と事蹟を辿る――」(『愛媛国文と教育』第14・15合併号 昭和58年 愛媛大学教育学部国語国文学会)中の、昭和26年(1951)の項から。
迷堂の還暦祝賀会は、八月十九日、鎌倉市明月院谷戸にある山端静子居で行われた。山端静子は、「えから」時代からの迷堂の門人である。高村光太郎の実妹である彼女は、迷堂庵にもよく出入りしているが、そこでの会話は、俳句の事以上に、兄や兄嫁智恵子の話が多かったらしい。
帰り花智恵子のことも聞かせけり 迷堂(昭和三五・一二“悼山端静子さん”より)
からも伺う事ができる。
さて、『明月谷』。静子の句が100句近くまとめられています。昭和22年(1947)頃から亡くなった同34年(1959)までのもの。静子64歳から76歳となっています(若干、年齢の換算が合っていないような気がしますが)。「抄」と冠されていますので、選集的な。加寿子様の撰です。
彼の地の風物を思い起こさせ、しみじみとさせられる句、思わずくすりとさせられる句など、さまざまですが、全体にかなり自由闊達に詠まれています。寡聞にして存じませんが、師の尾崎迷堂がそうだったのでしょうか、季重なりなど気にしていない句も目立ちます。
昭和31年(1956)4月2日、実兄の光太郎が没しましたが、その折と思われる句も。
雪を着て一輪椿落ちにけり
あな悲し永久の別れの卯月とは
悲しみを更に大裸像冴え返る
玉の緒のたえて兄妹春永久に
「雪を着て」は光太郎の没した日が季節外れの春の大雪だったことにちなみます。「大裸像」はアトリエにその石膏原型が遺されていた光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。繰り返される「永久」の語はこの場合「とわ」と読むのでしょう。
他にも後年、光太郎忌日・連翹忌に題を採った句も。
連翹や亡兄の好む黄の佳けれ
その他、夫の寅三が亡くなった際の句や、令孫・加寿子様を詠んだ句、上記の尾崎迷堂還暦句会の詠なども。
本文以外に、別刷り無綴じで、お近くにお住まいだという版画家の山室眞二氏の手になる薯版によるカード的な感じで8葉。上記「雪を着て……」の句も含まれていました。
静子句の前後には、加寿子様による「祖母・山端静子と過ごした日々」、やはりお近くにお住まいで光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏による解説が附され、理解の手助けとなっています。
それらによれば、尾崎喜八がすぐ近所に引っ越してきたのは本当に偶然だったそうで、それも昭和41年(1966)。したがってこの地で喜八と静子が顔を合わせることはなかったそうです。また、「明月谷」のタイトルで分かる通り、山端家、尾崎家ともあじさい寺として有名な明月院さんと同じ谷戸ですが、そのアジサイは喜八の進言で植えられ始めたとのこと。それは存じませんでした。喜八の墓は明月院さんにあります(通常非公開)。また、やはりこの地で暮らし、光太郎と交流のあった詩人・伊藤海彦などとの縁についても。
同封されていたカフェ兼ギャラリー「笛」さんの案内フライヤー画像を載せておきます。毎年秋には光太郎・喜八展的な展示が為され、近年はその一環で朗読会も行われています。今年も予定に入っているようです。
ご興味おありの方、ぜひ「笛」さんに足をお運び下さい。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)36 『光太郎智恵子』増補版
昭和43年(1968)1月5日 龍星閣 高村光太郎 高村智恵子著
目次
高村光太郎篇
詩 散文
書簡
高村(長沼)智恵子 長沼今朝吉 長沼せん子 長沼せき子 長沼修二 齋藤せつ子
柳八重子 水野葉舟 中原(曽我・小野)綾子 更級源蔵 秋廣あさ子 真壁仁
宮崎稔 難波田龍起 富士正晴
高村智恵子篇
詩 散文
書簡
長沼御両親 長沼せん子 長沼修二 齋藤新吉 せつ子 柳八重子
補遺
一昨日ご紹介した初版(昭和35年=1960)刊行後に発見された書簡9通が補われています。
補遺
一昨日ご紹介した初版(昭和35年=1960)刊行後に発見された書簡9通が補われています。








