昨日は都内に出ておりました。
メインは日本橋人形町で開催された講談の公演「一龍齋貞奈芸歴10周年記念講談会」でしたが、その前に文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんでの特別展「近代文学でよむ文の京の坂と名所」を拝観しましたので、まずはそちらからレポートいたします。
6月6日(土)には本展監修に当たられている東海大学さんの大木志門教授による関連行事としてのご講演「文京から花開いた文学散歩―野田宇太郎と観潮楼を起点に」があり、申し込んでいるのですが、抽選に当たるかどうか分かりませんし、何より早く見ておきたいと考えまして、昨日お邪魔しました。
明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立った鷗外。光太郎もその講義を聴き、卒業後も交流は続きました。光太郎はこの場所にあった鷗外自邸の観潮楼での歌会に参加したこともありますし、それから大正6年(1917)には酔ったはずみで鷗外の悪口を披瀝(光太郎は否定していますが)、それを聞きつけた鷗外にここに呼び出され、こっぴどく怒られました。呼び出される直前に光太郎が送った釈明の書簡が新たに出て来て、同館で令和4年(2022)に開催された特別展「」で展示されたこともありました。
そんなこともありつつも鷗外は光太郎の才を買い、明治42年(1909)の光太郎の徴兵検査では手心を加え(鷗外は軍医総監でしたので)、徴兵免除にしてやっています。光太郎の父・光雲が裏で手を回したようですが。
エントランスでは鷗外先生がお出迎え。地下展示室のホワイエでも。
光太郎の魂を背負って歩いていると自負する当方としては、自身が怒られているようで思わず「すみません」と心の中で謝ってしまいます(笑)。
右上はオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」中の鷗外。配信元のDMM GAMESさんとのタイアップ企画で、他にも光太郎、鷗外、室生犀星、江戸川乱歩の等身大パネルも門番のように佇んでいます。
中央は武石弘三郎作の鷗外像。
さて、展示を拝見。
最近、ちょっとしたブーム(これも「文豪とアルケミスト」などの影響があるようですが)の文学散歩的な要素を前面に押し出し、文京区内の「坂」と「名所」を古写真や錦絵などを使って紹介し、そこを題材とした近代文学作品の一節をパネルに印刷、掲載誌なども並べるという構成です。
「坂」は、この場所である団子坂をはじめ、無縁坂、切通坂、富坂、庚申坂、切支丹坂。「名所」は根津神社、東京帝大、森川町、湯島天神、本郷三丁目、お茶の水、江戸川(神田川)、砲兵工廠、牛天神、蒟蒻閻魔、伝通院、護国寺、小石川植物園、吉祥寺、そしてこの場所・千駄木。
その作品の一節等が使われたのは、鷗外を筆頭に、石川啄木、泉鏡花、江戸川乱歩、尾崎紅葉、川端康成、北原白秋、幸田露伴、佐藤春夫、志賀直哉、島崎藤村、高浜虚子、谷崎潤一郎、田山花袋、寺田寅彦、徳田秋声、徳永直、永井荷風、中野重治、夏目漱石、野上弥生子、樋口一葉、二葉亭四迷、正宗白鳥、宮本百合子、武者小路実篤、室生犀星、森田草平、横光利一、吉井勇、吉屋信子、若山牧水、そして我らが光太郎。かなりの人数です。文京区おそるべし、と思いました。
しかしこれ以外にも、文京ゆかりの文人はまだまだいます。思いつくまま挙げてみれば、犀星との関係で萩原朔太郎もこのあたりを訪れていますし、大正10年(1921)には国柱会がらみで宮沢賢治が本郷菊坂に居住、平塚らいてう(森田草平の『煤煙』で少し紹介されましたが)は駒込曙町で育ち、観潮楼のすぐ近くで『青鞜』を創刊しました。さらに当会の祖・草野心平は光太郎アトリエ兼住居にいりびたって時にはゲロを吐いて酔いつぶれたり(笑)……。他にも坪内逍遥、中里介山、林芙美子あたりも足跡を残しているはず。まぁ、「坂」や「名所」に関する紹介すべき適当な文章が見つからないというようなこともあるのかもしれませんし、きりがないということにもなるかもとも思いました。
光太郎については、主に3ヶ所。
まずアトリエ兼住居のあった千駄木の項で、詩「平和時代」。初出の『文藝春秋』第6巻第1号(昭和3年=1928)で掲載ページを開いての展示でした。

平和時代
冬の夕方そとを歩くと、
あの妙につやのある銀盤性の空に、
もう星がぱらぱらと見えかかり、
下界では何処ともなくどんよりただよふ
青やかな焚火のけむりの薄靄が、
路の隙間といふ隙間を埋めてゐる。
電燈の球がだいだい色に色めく頃には、
駒込千駄木林町に、
ちよつと人通りが途絶えるものだ。
さういふ時こそ、
通りすがりの垣根ごしに、
ふつと鋤焼のにほひがしたり、
又少しゆくと、往来のまんなかに、
一塩らしいさんまの匂が流れて来たり、
そこらの下水から石鹸(シヤボン)くさい湯気が立つてゐたり、
いろんな親密な生活にめぐり合ふ。
つきあたると坂になるから、
あの上から又下町の灯を見て来ようとつい思ふ。
平和な間にこそ可憐な姿は見て置かうと。
最終行「平和な間にこそ……」は草稿では抹消されています。
当時の千駄木界隈の様子がよくあらわされています。この十数年後には米軍による空襲でこの一帯は火の海となり、光太郎アトリエ兼住居も、鷗外の観潮楼も烏有に帰すことになるのですが。
同じく千駄木の項で、随筆「美術学校時代」から。
僕の住居は矢張り今の林町だつたが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪で道の両側は孟宗竹が密生してゐた。(略)学校にも近いので都合はよかつたが、あの団子坂などが昔は随分と急な坂で人力車などは上ることが出来なかつた。やうやく上つても今度は下りる時には止まらない。命がけで上つたり下りたりするような坂であつた。下の谷中道の両側はずつと田圃になつてをり、山岡鉄舟の全生庵等があつた。毎年秋になると団子坂は菊人形で賑はつた。森鷗外先生はその頃から団子坂上の藪下といふ所に居られて馬に跨つて通つて居られるのを見かけた。
ちなみに「美術学校時代」、『高村光太郎全集』完結時には初出掲載誌不明でしたが、昭和17年(1942)の雑誌『知性』第5巻第9号が初出と判明しています。展示はこの文章の載った光太郎随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)でした。
それから明治37年(1904)の美校在学中の日記「彫塑雑記」の一節。
昨夕加藤景雲氏に誘はれて約束したる通り朝八時加藤氏と二人新小金井の名ある江戸川ぶちなる花をながめて観世の月並能を見にゆく。
加藤景雲は光雲高弟の一人、「江戸川」は現在の神田川です。
他にも解説パネルに光太郎の名が数ヶ所。それから、二つある展示室をつなぐ通路には、光太郎を含め、上記の今回取り上げられた30名ほどの肖像写真と略歴。同じものは図録にも載っていました。閉口したのは光太郎の項の最後に「同(明治)42年には駒込動坂町に住んだ」とあったこと。大間違いです。そのような事実はありません。
どうも智恵子と混同してしまったようです。智恵子はそれ以前に入居していた日本女子大学校の卒業生用の楓寮が閉鎖となり、同郷で同窓だった幡ナツが、自分も下宿していた日本画家の夏目利政宅に智恵子が住めるよう計らってくれました。その夏目家が動坂町でした。
来館者アンケートに上記の件を書いて専用ポストに入れておきましたが、図録はともかくパネルは訂正されるかどうか……というところです。無地の白いシールでも貼って抹消していただきたいのですが。
図録がこちら。
60ページほどで、あまり厚くもなくコンパクトにまとまっていて、価格も880円と良心的です。
展示品の図版以外にも、監修に当たられた東海大学さんの大木志門教授の玉稿、見開きで綴じ込まれた紹介されている「坂」「名所」のマップなど、なかなかのものです。
拝観後、展示でも紹介されていた根津神社さんまで足を伸ばしました。
「文京つつじまつり」が開催中(今日まで)で、たくさんの出店(でみせ)が。ただ、花の見頃はもう過ぎてしまっている感じでした。
こちらには、観潮楼以前に鷗外が暮らした家屋が移築され、「舞姫の家」として公開されています。
元はホテルが所有、泊まれるプランなどもありましたがホテルが廃業。移転に関してはいろいろすったもんだがあったようですが、とにもかくにも残されたのは良かったと思います。
当方も関わっている光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエは残念ながら現地保存は成らず、マンション建設のため解体されました。
しかし消滅というわけではなく、部材は保管、「舞姫の家」同様、移築という方向で動いているところです。いずれよい報告ができることを願って已みません。
この後、日本橋人形町へ。続きは明日。
高村光太郎篇
「本人著作(部分)」の項、光太郎が没した昭和31年(1956)までのものとするつもりでおりましたが、この書籍のみは別格で例外とします。
『智恵子抄』『智恵子抄その後』の版元の龍星閣で、それらの補遺というか裏面史というか、そういう意図で編みました。主に光太郎智恵子から諸方に送られた書簡がメインです。上記目次の名前はその宛先です。光太郎智恵子への来翰ではありません。
メインは日本橋人形町で開催された講談の公演「一龍齋貞奈芸歴10周年記念講談会」でしたが、その前に文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんでの特別展「近代文学でよむ文の京の坂と名所」を拝観しましたので、まずはそちらからレポートいたします。
6月6日(土)には本展監修に当たられている東海大学さんの大木志門教授による関連行事としてのご講演「文京から花開いた文学散歩―野田宇太郎と観潮楼を起点に」があり、申し込んでいるのですが、抽選に当たるかどうか分かりませんし、何より早く見ておきたいと考えまして、昨日お邪魔しました。
明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立った鷗外。光太郎もその講義を聴き、卒業後も交流は続きました。光太郎はこの場所にあった鷗外自邸の観潮楼での歌会に参加したこともありますし、それから大正6年(1917)には酔ったはずみで鷗外の悪口を披瀝(光太郎は否定していますが)、それを聞きつけた鷗外にここに呼び出され、こっぴどく怒られました。呼び出される直前に光太郎が送った釈明の書簡が新たに出て来て、同館で令和4年(2022)に開催された特別展「」で展示されたこともありました。
そんなこともありつつも鷗外は光太郎の才を買い、明治42年(1909)の光太郎の徴兵検査では手心を加え(鷗外は軍医総監でしたので)、徴兵免除にしてやっています。光太郎の父・光雲が裏で手を回したようですが。
エントランスでは鷗外先生がお出迎え。地下展示室のホワイエでも。
光太郎の魂を背負って歩いていると自負する当方としては、自身が怒られているようで思わず「すみません」と心の中で謝ってしまいます(笑)。
右上はオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」中の鷗外。配信元のDMM GAMESさんとのタイアップ企画で、他にも光太郎、鷗外、室生犀星、江戸川乱歩の等身大パネルも門番のように佇んでいます。
中央は武石弘三郎作の鷗外像。
さて、展示を拝見。
最近、ちょっとしたブーム(これも「文豪とアルケミスト」などの影響があるようですが)の文学散歩的な要素を前面に押し出し、文京区内の「坂」と「名所」を古写真や錦絵などを使って紹介し、そこを題材とした近代文学作品の一節をパネルに印刷、掲載誌なども並べるという構成です。
「坂」は、この場所である団子坂をはじめ、無縁坂、切通坂、富坂、庚申坂、切支丹坂。「名所」は根津神社、東京帝大、森川町、湯島天神、本郷三丁目、お茶の水、江戸川(神田川)、砲兵工廠、牛天神、蒟蒻閻魔、伝通院、護国寺、小石川植物園、吉祥寺、そしてこの場所・千駄木。
その作品の一節等が使われたのは、鷗外を筆頭に、石川啄木、泉鏡花、江戸川乱歩、尾崎紅葉、川端康成、北原白秋、幸田露伴、佐藤春夫、志賀直哉、島崎藤村、高浜虚子、谷崎潤一郎、田山花袋、寺田寅彦、徳田秋声、徳永直、永井荷風、中野重治、夏目漱石、野上弥生子、樋口一葉、二葉亭四迷、正宗白鳥、宮本百合子、武者小路実篤、室生犀星、森田草平、横光利一、吉井勇、吉屋信子、若山牧水、そして我らが光太郎。かなりの人数です。文京区おそるべし、と思いました。
しかしこれ以外にも、文京ゆかりの文人はまだまだいます。思いつくまま挙げてみれば、犀星との関係で萩原朔太郎もこのあたりを訪れていますし、大正10年(1921)には国柱会がらみで宮沢賢治が本郷菊坂に居住、平塚らいてう(森田草平の『煤煙』で少し紹介されましたが)は駒込曙町で育ち、観潮楼のすぐ近くで『青鞜』を創刊しました。さらに当会の祖・草野心平は光太郎アトリエ兼住居にいりびたって時にはゲロを吐いて酔いつぶれたり(笑)……。他にも坪内逍遥、中里介山、林芙美子あたりも足跡を残しているはず。まぁ、「坂」や「名所」に関する紹介すべき適当な文章が見つからないというようなこともあるのかもしれませんし、きりがないということにもなるかもとも思いました。
光太郎については、主に3ヶ所。
まずアトリエ兼住居のあった千駄木の項で、詩「平和時代」。初出の『文藝春秋』第6巻第1号(昭和3年=1928)で掲載ページを開いての展示でした。

平和時代
冬の夕方そとを歩くと、
あの妙につやのある銀盤性の空に、
もう星がぱらぱらと見えかかり、
下界では何処ともなくどんよりただよふ
青やかな焚火のけむりの薄靄が、
路の隙間といふ隙間を埋めてゐる。
電燈の球がだいだい色に色めく頃には、
駒込千駄木林町に、
ちよつと人通りが途絶えるものだ。
さういふ時こそ、

通りすがりの垣根ごしに、
ふつと鋤焼のにほひがしたり、
又少しゆくと、往来のまんなかに、
一塩らしいさんまの匂が流れて来たり、
そこらの下水から石鹸(シヤボン)くさい湯気が立つてゐたり、
いろんな親密な生活にめぐり合ふ。
つきあたると坂になるから、
あの上から又下町の灯を見て来ようとつい思ふ。
平和な間にこそ可憐な姿は見て置かうと。
最終行「平和な間にこそ……」は草稿では抹消されています。
当時の千駄木界隈の様子がよくあらわされています。この十数年後には米軍による空襲でこの一帯は火の海となり、光太郎アトリエ兼住居も、鷗外の観潮楼も烏有に帰すことになるのですが。
同じく千駄木の項で、随筆「美術学校時代」から。
僕の住居は矢張り今の林町だつたが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪で道の両側は孟宗竹が密生してゐた。(略)学校にも近いので都合はよかつたが、あの団子坂などが昔は随分と急な坂で人力車などは上ることが出来なかつた。やうやく上つても今度は下りる時には止まらない。命がけで上つたり下りたりするような坂であつた。下の谷中道の両側はずつと田圃になつてをり、山岡鉄舟の全生庵等があつた。毎年秋になると団子坂は菊人形で賑はつた。森鷗外先生はその頃から団子坂上の藪下といふ所に居られて馬に跨つて通つて居られるのを見かけた。
ちなみに「美術学校時代」、『高村光太郎全集』完結時には初出掲載誌不明でしたが、昭和17年(1942)の雑誌『知性』第5巻第9号が初出と判明しています。展示はこの文章の載った光太郎随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)でした。
それから明治37年(1904)の美校在学中の日記「彫塑雑記」の一節。
昨夕加藤景雲氏に誘はれて約束したる通り朝八時加藤氏と二人新小金井の名ある江戸川ぶちなる花をながめて観世の月並能を見にゆく。
加藤景雲は光雲高弟の一人、「江戸川」は現在の神田川です。
他にも解説パネルに光太郎の名が数ヶ所。それから、二つある展示室をつなぐ通路には、光太郎を含め、上記の今回取り上げられた30名ほどの肖像写真と略歴。同じものは図録にも載っていました。閉口したのは光太郎の項の最後に「同(明治)42年には駒込動坂町に住んだ」とあったこと。大間違いです。そのような事実はありません。
どうも智恵子と混同してしまったようです。智恵子はそれ以前に入居していた日本女子大学校の卒業生用の楓寮が閉鎖となり、同郷で同窓だった幡ナツが、自分も下宿していた日本画家の夏目利政宅に智恵子が住めるよう計らってくれました。その夏目家が動坂町でした。
来館者アンケートに上記の件を書いて専用ポストに入れておきましたが、図録はともかくパネルは訂正されるかどうか……というところです。無地の白いシールでも貼って抹消していただきたいのですが。
図録がこちら。
60ページほどで、あまり厚くもなくコンパクトにまとまっていて、価格も880円と良心的です。
展示品の図版以外にも、監修に当たられた東海大学さんの大木志門教授の玉稿、見開きで綴じ込まれた紹介されている「坂」「名所」のマップなど、なかなかのものです。
拝観後、展示でも紹介されていた根津神社さんまで足を伸ばしました。
「文京つつじまつり」が開催中(今日まで)で、たくさんの出店(でみせ)が。ただ、花の見頃はもう過ぎてしまっている感じでした。
こちらには、観潮楼以前に鷗外が暮らした家屋が移築され、「舞姫の家」として公開されています。
元はホテルが所有、泊まれるプランなどもありましたがホテルが廃業。移転に関してはいろいろすったもんだがあったようですが、とにもかくにも残されたのは良かったと思います。
当方も関わっている光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエは残念ながら現地保存は成らず、マンション建設のため解体されました。
しかし消滅というわけではなく、部材は保管、「舞姫の家」同様、移築という方向で動いているところです。いずれよい報告ができることを願って已みません。
この後、日本橋人形町へ。続きは明日。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)34 『光太郎智恵子』
昭和35年(1960)8月31日 龍星閣 高村光太郎 高村智恵子著
目次高村光太郎篇
詩 散文
書簡
書簡
高村(長沼)智恵子 長沼今朝吉 長沼せん子 長沼せき子 長沼修二 齋藤せつ子
柳八重子 水野葉舟 中原(曽我・小野)綾子 更級源蔵 秋廣あさ子 真壁仁
柳八重子 水野葉舟 中原(曽我・小野)綾子 更級源蔵 秋廣あさ子 真壁仁
宮崎稔 難波田龍起 富士正晴
高村智恵子篇
高村智恵子篇
詩 散文
書簡
長沼御両親 長沼せん子 長沼修二 齋藤新吉 せつ子 柳八重子
「本人著作(部分)」の項、光太郎が没した昭和31年(1956)までのものとするつもりでおりましたが、この書籍のみは別格で例外とします。
『智恵子抄』『智恵子抄その後』の版元の龍星閣で、それらの補遺というか裏面史というか、そういう意図で編みました。主に光太郎智恵子から諸方に送られた書簡がメインです。上記目次の名前はその宛先です。光太郎智恵子への来翰ではありません。
























