今日も2件、ご紹介します。
まず4月1日(水)付け『毎日新聞』さん。

山田さんが作家デビューしたのは、男女雇用機会均等法が成立した1985年。26歳の時に書いた『ベッドタイムアイズ』で、河野さんらが選考委員を務める文芸賞を受賞したのがきっかけだった。芥川賞・直木賞初の女性選考委員として河野さんや田辺聖子さんらが就任した87年には、『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞。時代の変化を肌で味わってきた。
光太郎詩「道程」(大正3年=1914)はほんの刺身のツマ以下ですが(笑)。
本題は「女流」の語。現代の文壇では死語となったそうですが、確かにかつてはあたりまえのように使われていました。「女流文学」と大きな括りの場合もあれば、ジャンルごとに「女流作家」「女流詩人」「女流歌人」などとも。
女性と男性とでは、やはり物の見方、考え方、その他いろいろな相違は確かにあるのでしょう。しかしそれが生来のものである部分と、社会から「推奨」乃至は「強制」されたものである部分とがあるような気がします。そうした「推奨」乃至は「強制」に抗ってきた人々の歴史があってこそ文壇で「女流」の語が死語となったのだ、と、いうわけで。
山田氏の『三頭の蝶の道』、登場人物のモデルは河野多恵子、瀬戸内寂聴、大庭みな子を彷彿とさせられるそうですが、大正末から昭和一桁の生まれの人々ですね。さらに遡れば、この人々と交流があったり、影響を及ぼしたりした一世代前の「女流」として、光太郎智恵子とも交流の深かった与謝野晶子や平塚らいてうなどが浮かびますし、そこまで有名でなくても智恵子の親友で瀬戸内寂聴が評伝的小説を書いた田村俊子もいます。もっと遡れば樋口一葉などに近代としての源流があるのでしょう。山田氏曰く「女流の名をものともせず、自分が人間であることを文学で証明していくような人たち」。
ところで、文壇で「女流」の語が使われなくなったとはいえ、未だに「女性ならではの……」「女性特有の……」などといった形容は生き残っているような気はします。「男性ならでは……」「男性特有……」とは言いませんね。また、文学に限りませんが「女子力」というのも考えてみれば不思議な言葉ですね。
ちなみに現代、「女流」の語が現役で残っているのは囲碁・将棋の世界。囲碁の世界はよく存じませんが、将棋だと男女の別を撤廃し女流にもプロ編入に門戸を開いているようですが、現実にそれに挑戦する例は少なく、また、それで勝ち抜いた女流棋士はまだいないようです。今後の活躍に期待します。
さて、もう1件。4月7日(火)付けの『福島民報』さん一面コラム。
光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を繰り返して下さいました。ありがたし。「誰かを愛する人の輪が幾重にも、ほんとの空を覆ってくれたら」、そのとおりですね。
現実には真逆に「国論を二分する」とか何とか、わざわざ分断を煽ろうとする女性がなぜかもてはやされている現状で、実に頭の痛いところですし、その女性は何の権限があってか愛子さまをないがしろにしようとしているようですが……。
ところで東日本大震災、それに伴う原発事故から15年。明日はその関連で。
大正型の詩人 河合酔茗 追弔三句 北原白秋
前年に亡くなった詩人の佐藤惣之助の追悼文集です。ちなみに佐藤は作詞家でもあり、代表作は阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」。逆に言うと、それ以外の部分では忘れられつつあるかな、という感じです。
光太郎は佐藤が主宰した詩誌『詩之家』にたびたび寄稿、さらにその題字も書いています。また、それより以前にやはり佐藤主宰の『テラコツタ』『嵐』などにも寄稿しているようなのですが、それらがかなり稀覯の部類に入るようで、いまだに確認出来ていません。情報をお持ちの方、ご教示頂ければ幸いです。
まず4月1日(水)付け『毎日新聞』さん。
女流。昭和のある時期まで女性作家たちはそう呼ばれた。侮蔑的な意味もあり、今や文壇では死語となった。だが「女流と呼ばれていた時代の人たちが切磋琢磨(せっさたくま)しながら小説を書いてきた事実をなかったことにはできない」と作家の山田詠美さんは言う。
デビュー40周年の節目に発表された新刊『三頭の蝶(ちょう)の道』(河出書房新社)で描くのは、女流という呼び名をプライドに変え、小説を編んだ女たちの物語だ。
同時代に活躍した女性作家3人をめぐる群像劇。3章構成の各章は、それぞれの死にまつわる場面から始まり、編集者や親交のあった作家、親族らの回想から、彼女たちの生きた時間がひもとかれる。山田さんと交流のあった河野多恵子さんや瀬戸内寂聴さん、大庭みな子さんらを思わせる人物が登場するが、物語はあくまでフィクションの形をとる。
3人の大作家は互いに<愛に近い敬意、そして嫉妬に近い憎しみ>を募らせつつ、ひたすら自分の文学世界を追求した。「性別なんか関係なく、文学を愛してきたんだっていうところは強調したかった」。その姿は、男も女も超えた「文学の鬼」だ。 <作家は、脳内で人を殺せてこそ、花。そう思わない?> 登場人物の一人、河合理智子の言葉にはすごみがある。

山田さんが作家デビューしたのは、男女雇用機会均等法が成立した1985年。26歳の時に書いた『ベッドタイムアイズ』で、河野さんらが選考委員を務める文芸賞を受賞したのがきっかけだった。芥川賞・直木賞初の女性選考委員として河野さんや田辺聖子さんらが就任した87年には、『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞。時代の変化を肌で味わってきた。
「女流の名をものともせず、自分が人間であることを文学で証明していくような人たちの姿を、私は末席で見続けた最後の世代」と自認する。ある日、若い女性作家が女流という言葉に吐き気がすると書いた文章を読み、違和感を覚えた。「『女流』たちがいたから、あなたたちが自由にものを書ける世界が広がったのではないか」と。 その名に誇りと無念さを抱きながら、今に続く道をならしてきた「女流」。彼女たちのことを小説に残すのは私しかいない。そんな「使命感」が本作に向かわせた。
執筆の際、「先輩たちのことを思い浮かべるだけで広がるものがあった。何しろ存在そのものがドラマチックな人が多かったから」と振り返る。
瀬戸内さんは最晩年、自身と河野さん、大庭さんのことを小説『いのち』(2017年)に書いたが、「同じ相手と付き合っていても人によって見え方は違う。私が見たものはそうではない、というところも意識しました」と話す。
タイト15年、亡くなる約3週間前に病院へ見舞いに行った時のこと。「飛んでいる蝶を見て『あ、蝶が2匹』と言ったら、『蝶は1頭2頭と数えるの』と教えてくれました。その時、いつかこのことを書く時が来るって思ったんです。河野さんとのお別れは近いと感じていたから、ちょっとセンチメンタルにもなっていたのね」
人間には見えないとされる、蝶だけの道のイメージと、自らの文学に身をささげた「女流」作家の生が重なり、物語が動き始めた。
戦前、女の書く小説は主流ではないとみなされた時代に、女性作家たちは「日本女流文学者会」を立ち上げた。男性に名付けられるのではなく、自ら「女流」と名乗ることで自分たちの文学を肯定したのだ。<差別語を逆手に取って、自分たちの存在を主張するのは、言葉による決起ね>と理智子は言う。
そうやって奮起し、闘ってきた女たちの歴史をこそ書き留めたかった。
「女流という言葉は差別用語だから使うのはいけない、と言うのは簡単です。その中にあるさまざまな事情を書くのが小説であり、世の中が言っている事や『正しさ』みたいなものに小説はくみしない」
小説家は、全員で何かを糾弾するところから「一人抜けて書く」ことを常に意識すべきだと考える。「数が多いと自分が強くなった気になるけど、それじゃダメ。弱いところにいて書かないと」. 敬愛する先輩たちも「女流」の旗の下にただ集まったのではない。文学に魅入られた一人一人が自分だけの言葉があると確信し、探し求めていた。「それらがだんだんと絡み合い、生まれてきた熱いもの」が時代を切り開いてきた。本作はその「熱い」年月を、山田さんだけの目と、耳と、感覚で捉えた一冊だ。 後ろの道しか見えない. 作家の道を歩み続けて40年 これからを問うと「私ね、高村光太郎(の『道程』)じゃないけど、後ろの道しか見えない」と返ってきた。「あした死ぬかもしれないっていつも思っていて、そうすると昨日までのことが重要に思えてくる」。いくつもの足跡が残る「昨日」が小説を形作るものになっていく。 「一つの小説を書き終えて、さあどうしようと考えていると、体の中に埋め込まれた記憶の引き出しが開くの。それでまた、ああそうだ、私まだまだこれを書かないと死ねないわって思うんです」
光太郎詩「道程」(大正3年=1914)はほんの刺身のツマ以下ですが(笑)。
本題は「女流」の語。現代の文壇では死語となったそうですが、確かにかつてはあたりまえのように使われていました。「女流文学」と大きな括りの場合もあれば、ジャンルごとに「女流作家」「女流詩人」「女流歌人」などとも。
女性と男性とでは、やはり物の見方、考え方、その他いろいろな相違は確かにあるのでしょう。しかしそれが生来のものである部分と、社会から「推奨」乃至は「強制」されたものである部分とがあるような気がします。そうした「推奨」乃至は「強制」に抗ってきた人々の歴史があってこそ文壇で「女流」の語が死語となったのだ、と、いうわけで。
山田氏の『三頭の蝶の道』、登場人物のモデルは河野多恵子、瀬戸内寂聴、大庭みな子を彷彿とさせられるそうですが、大正末から昭和一桁の生まれの人々ですね。さらに遡れば、この人々と交流があったり、影響を及ぼしたりした一世代前の「女流」として、光太郎智恵子とも交流の深かった与謝野晶子や平塚らいてうなどが浮かびますし、そこまで有名でなくても智恵子の親友で瀬戸内寂聴が評伝的小説を書いた田村俊子もいます。もっと遡れば樋口一葉などに近代としての源流があるのでしょう。山田氏曰く「女流の名をものともせず、自分が人間であることを文学で証明していくような人たち」。
ところで、文壇で「女流」の語が使われなくなったとはいえ、未だに「女性ならではの……」「女性特有の……」などといった形容は生き残っているような気はします。「男性ならでは……」「男性特有……」とは言いませんね。また、文学に限りませんが「女子力」というのも考えてみれば不思議な言葉ですね。
ちなみに現代、「女流」の語が現役で残っているのは囲碁・将棋の世界。囲碁の世界はよく存じませんが、将棋だと男女の別を撤廃し女流にもプロ編入に門戸を開いているようですが、現実にそれに挑戦する例は少なく、また、それで勝ち抜いた女流棋士はまだいないようです。今後の活躍に期待します。
さて、もう1件。4月7日(火)付けの『福島民報』さん一面コラム。
震災と原発事故から、ちょうど2カ月後。沈んだ「ほんとの空」を、一機の自衛隊ヘリが横切った。計画的避難区域に指定された飯舘村と川俣町の上空に差しかかった時だった。「あそこがそうですね」▼声の主は、被災地訪問から帰路に就かれた今の上皇ご夫妻。言葉から、うかがえる。お二人がどれだけ「ふくしま」に心を寄せ、事前に状況を把握されていたか。県民とともに歩むご意思は、天皇、皇后両陛下に受け継がれた。即位後初めて浜通り入りされた。住民と温かく語らい、いばらの歩みに理解を深めている▼思いはさらに、世代を超えてつながれる。両陛下のご意向で長女愛子さまが同行されている。4年前、成年に当たっての記者会見。「苦難の道を歩む方々に思いを寄せ続けることも大切にしたい」と語った。はにかむ表情は待ちわびた春の陽光のよう。15年間固く張り詰めた心の氷を優しく、静かに解かす。今、清らかな風が舞う▼愛子さまのお名前の由来は、孟子の「人を愛するものは、他人も常にその人を愛す」。誰かを愛する人の輪が幾重にも、ほんとの空を覆ってくれたら。おじいさまと、おばあさまも、きっとそう願っておいでだ。
光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を繰り返して下さいました。ありがたし。「誰かを愛する人の輪が幾重にも、ほんとの空を覆ってくれたら」、そのとおりですね。
現実には真逆に「国論を二分する」とか何とか、わざわざ分断を煽ろうとする女性がなぜかもてはやされている現状で、実に頭の痛いところですし、その女性は何の権限があってか愛子さまをないがしろにしようとしているようですが……。
ところで東日本大震災、それに伴う原発事故から15年。明日はその関連で。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)19 『佐藤惣之助覚え帖』
昭和18年(1943)8月25日 桜井書店 潮田武雄編
目次大正型の詩人 河合酔茗 追弔三句 北原白秋
詩魔佐藤惣之助氏 高村光太郎 佐藤惣之助君を憶ふ 川路柳虹
ばら 室生犀星 佐藤惣之助君を想ふ 千家元麿
佐藤惣之助君を悼む 白鳥省吾 佐藤は生きてゐる 福田正夫
惣之助さん 深尾須磨子 遅いお礼 井上康文
惣之助さんと交遊 勝承夫 佐藤惣之助さん 三好達治
想ひ出の花束 高木斐瑳雄 男には三分の非人情 笹沢美明
佐藤惣之助氏と私 尾崎士郎 遙かな潜水夫 釈迢空
昔の水音 荻原井泉水 佐藤君の脚本 渥美清太郎
佐藤氏を憶ふ 保田与重郎 うまのあつた釣友達 上山草人
畏友・佐藤さん 大村能章 四十年の友 室積徂春
憶ひ出 野間仁根 佐藤惣之助を悼む 高田力蔵
夢の断片・釣と旅 飯田九一 畏友佐藤惣之助を追悼す 鈴木保徳
大魚さん 高橋心一 折本会と佐藤君 雲井隣静
酔花佐藤を憶ふ 栗原愛塔 故佐藤惣之助君追憶 佐藤栄秀
川崎と兄さん 加藤斧青 ある夜の佐藤氏 潮田謙三郎
惣之助の幼い頃 佐藤うめ 夫のこと 佐藤周子
痛哭唱 潮田武雄 回想断片 椎橋好
惣師死別 飯倉尚 五十年の旅 塩川秀次郎
追悼惣先生 渡辺修三 あの日あの頃 久保田彦穂
先生の俳句 門脇英鎮 惣師のことども 伊波南哲
告別式の日其他 清水房之丞 楡の花が散ります 古川賢一郎
「詩の家」の頃 杉浦杜夫 北南 津喜山一穂
五月十五日 丸山泰 思想体系のない 三ツ村繁蔵
雲丹を送らざるの記 夢野艸一 古赤絵の味 岡田悦哉
最初のこと最後のこと 岡田榛名 巨師の横顔 中島勝利
先生の霊に捧ぐ 村上就徳 ひとひらの蟲と化したまひし 戸塚八重子
パパの思ひ出 天野静子 おもひで 壺田花子
南方的詩人 澤木隆子 消えし人 永瀬清子
ひぐらし 方等みゆき 先生の御臨終記 小山省
惣之助の素描 椎橋好 後記 室生犀星
佐藤惣之助ノート
前年に亡くなった詩人の佐藤惣之助の追悼文集です。ちなみに佐藤は作詞家でもあり、代表作は阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」。逆に言うと、それ以外の部分では忘れられつつあるかな、という感じです。
光太郎は佐藤が主宰した詩誌『詩之家』にたびたび寄稿、さらにその題字も書いています。また、それより以前にやはり佐藤主宰の『テラコツタ』『嵐』などにも寄稿しているようなのですが、それらがかなり稀覯の部類に入るようで、いまだに確認出来ていません。情報をお持ちの方、ご教示頂ければ幸いです。



