今年、光太郎は没後70周年、智恵子は生誕140周年です。
だから、と言うわけでもないのでしょうが、このところ、2人の名を新聞紙上でよく見かけます。ちょうど4月2日(木)の連翹忌前後のこのブログでも計4件ご紹介しました。
その後もそれが続きまして、今日明日と2日間に分け、また4件ほどご紹介します。
まず『東京新聞』さん、4月4日(土)掲載の劇作家・鴻上尚史氏によるコラム。
「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!」。コール&レスポンスが夜空に響く。歩道を埋め尽くす色とりどりのペンライトがそのたびに揺れ、美しい波となる――。8日夜、国会前で開かれたデモに、主催者発表で3万人が参加した。「国民なめるな!」のコールも聞こえる。この国の主は主権者ひとりひとりであることを、主権者にはパワーがあることを、光の波は教える。畏れを知らぬ首相もいずれ、この波を見るだろう。畏怖(いふ)せずにいられないはずだ。まともな権力者であるならば。
「智恵子は「東京には空がない」と言った」は本題とはあまり関係ありませんが(笑)。しかし、「東京には空がない」と言った智恵子は、光太郎曰くかつてこの国に存在していた(現代でもそれに近い輩が居ますが)「傍若無人のがさつな階級」を「身ぶるひする程いやがつていた」そうです。
だから、と言うわけでもないのでしょうが、このところ、2人の名を新聞紙上でよく見かけます。ちょうど4月2日(木)の連翹忌前後のこのブログでも計4件ご紹介しました。
その後もそれが続きまして、今日明日と2日間に分け、また4件ほどご紹介します。
まず『東京新聞』さん、4月4日(土)掲載の劇作家・鴻上尚史氏によるコラム。
「戦争反対」に関するSNS上の発言がまだ話題ですが、「戦争反対」に対する批判というか突っ込みで「戦争に賛成する者なんかいない。当たり前のことを偉そうに言うな」という反論を、ちらほらと見かけるようになりました。
◆開戦した12月8日、知識人が感じたことは
まあ、確かに、「戦争賛成」とSNSで投稿する人は、日本では珍しいかもしれません。
「ガザ攻撃支持」とか「ウクライナ撃滅」だの「イラン撃破」なんて勇ましい(?)言葉を海外のSNSで見ることはありますが、今のところ、戦争そのものを無条件で全面的に肯定した書き込みをする人は、日本では少数派でしょう。
みんな一応、建前というか、原則としては「戦争はよくない」「戦争はなるべくはしてはいけないものだ」というスタンスだと思います。
『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社)という本があります。
昭和16年、12月8日のアジア・太平洋戦争が始まった日に、日本人はどう感じ、何を考えたのかを、当時の知識人・著名人50人余りの日記や回想録から集めた本です。
◆坂口安吾は東条首相の話をラジオで聞いて…
戦後思想の巨人、吉本隆明氏は、17歳の時で、開戦のニュースを聞いた時は「ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした」と回想しています。
『ごん狐』が教科書で有名な童話作家、新美南吉は28歳の時で、「いよいよはじまったかと思った。何故か體(からだ)ががくがくと慄(ふる)へた。ばんざあいと大聲(おおごえ)で叫びながら駆け出したいやうな衝動も受けた」と書きました。
『堕落論』で戦後注目された、坂口安吾は35歳の時で、東条首相の話をラジオで聞いて、「涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ」と感じました。
◆多くの著名人が「新世界が始まるような」感情に
同じく作家の横光利一は43歳の時で、「戦はついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ」と書きました。
詩人室生犀星は52歳で、「十二月八日」と題した詩は、冒頭
「何かを言いあらわそうとする者/そして言いあらわせない者/よろこびの大きさに打たれて/ここで凝乎として喜んでいる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人は初めて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらわしたいとあせる」
としました。
同じく詩人の高村光太郎は58歳。「おのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇って来た」「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった」
民俗学者の折口信夫は54歳で「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺(おぼ)えた」と書きました。
歌人の斎藤茂吉は59歳。「老生ノ紅血躍動!」と書きました。
軍人や政治家が開戦を肯定的に評価するのは、当然かもしれませんが、圧倒的多数の著名人や知識人が12月8日を「感動し、落涙し、身が引き締まる思いがし、新世界が始まるような」肯定的な感情で迎えたことが、この本から分かります。
◆だからこそ「戦争反対」と言い続けたい
反発したのは、ほんの少数。
詩人の金子光晴は45歳で「僕は、アメリカとの戦争が始まった時、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」と回想しました。
「芸術は爆発だ」の岡本太郎は30歳。「まさか──私はガク然とした。日本は独伊と同盟を結んでいた。しかしそれは米英などとのさまざまの交渉を有利に展開するためのかけひきであって、強硬なのも結局ポーズだけかと思っていたのに。
もう入隊はきまっている。ああ、オレは間違いなく死ぬんだ。死んでやろう。私ははり裂ける思いで家の外に飛び出した。ふりあおいだ冬空は限りなく青かった」と書きました。
軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。
だからこそ、ふだんから「戦争反対」と言い続け、魂の奥底まで刻むことが大切なのだと僕は思います。
引用されている光太郎作品は「十二月八日の記」と題する散文です。昭和16年(1941)のこの日、光太郎は議員を務めていた第二回中央協力会議出席のため丸ノ内の大政翼賛会本部に居ました。しかし予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、引用されているのはそれを聴いての感想の部分です。
その他、まだ学生だった吉本隆明、新美南吉、坂口安吾、横光利一、室生犀星、折口信夫、斎藤茂吉……。異口同音に開戦時を語っています。岡本太郎や金子光晴は「反発」と扱われています。しかし岡本太郎はともかく、金子光晴に関しては額面通りに受け取れません。以前にも書きましたが、金子は戦後になって、本人というより取り巻きの操作で「戦時中も反戦を貫いた」という評が為され、そのように受けとめられています(現代の文芸評論界の大御所もころっと騙されています)が、開戦後には数は少ないもののコテコテの翼賛詩文を書いて発表しています。光太郎ほどの積極的協力ではなかったにせよ「戦時中も反戦を貫いた」とはとても言い難いのです。「『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」のも、ヒューマニスティックな心の叫びというより、個人的なものにすぎないでしょう。
「軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。」この愚を繰り返してはいけないわけですが、昨今の世情をみるに、つのるのは危機感ばかりです。
その後、戦争を煽った光太郎は戦後になってそれを深く悔い、花巻郊外旧太田村の劣悪な環境で7年間もの蟄居生活を送りました。その間、天職と定めていた彫刻も封印。それは自らに課した最大の罰でした。だから光太郎は偉い、と言うつもりもありませんが(犯した罪は消えませんので)、他のほとんどの文学者たちは、戦時中の行動を無かったことにしたり、強制されてのもので本意ではなかったと言い訳したり、戦後になっても皇国史観から抜け出せずに開き直ったりしました。
そんな醜い姿は見たくありませんね。
続いて『朝日新聞』さん。編集委員・高橋純子氏の稿。4月11日(土)掲載分です。
その他、まだ学生だった吉本隆明、新美南吉、坂口安吾、横光利一、室生犀星、折口信夫、斎藤茂吉……。異口同音に開戦時を語っています。岡本太郎や金子光晴は「反発」と扱われています。しかし岡本太郎はともかく、金子光晴に関しては額面通りに受け取れません。以前にも書きましたが、金子は戦後になって、本人というより取り巻きの操作で「戦時中も反戦を貫いた」という評が為され、そのように受けとめられています(現代の文芸評論界の大御所もころっと騙されています)が、開戦後には数は少ないもののコテコテの翼賛詩文を書いて発表しています。光太郎ほどの積極的協力ではなかったにせよ「戦時中も反戦を貫いた」とはとても言い難いのです。「『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」のも、ヒューマニスティックな心の叫びというより、個人的なものにすぎないでしょう。
「軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。」この愚を繰り返してはいけないわけですが、昨今の世情をみるに、つのるのは危機感ばかりです。
その後、戦争を煽った光太郎は戦後になってそれを深く悔い、花巻郊外旧太田村の劣悪な環境で7年間もの蟄居生活を送りました。その間、天職と定めていた彫刻も封印。それは自らに課した最大の罰でした。だから光太郎は偉い、と言うつもりもありませんが(犯した罪は消えませんので)、他のほとんどの文学者たちは、戦時中の行動を無かったことにしたり、強制されてのもので本意ではなかったと言い訳したり、戦後になっても皇国史観から抜け出せずに開き直ったりしました。
そんな醜い姿は見たくありませんね。
続いて『朝日新聞』さん。編集委員・高橋純子氏の稿。4月11日(土)掲載分です。
先の総選挙で歴史的大勝を収めたからこそ、依然として高い支持率を維持しているからこその純粋かつ単純、そして根本的な疑問。感情的にならぬようゆっくりと、腹に力を込めて、聞きたい。
どうしてあなたは、なんのためにあなたは、首相になったのですか?
* これほど「現れない」首相は前代未聞だろう。新年度予算案をめぐる参院集中審議への出席は10時間弱。石破茂政権の4分の1。おきて破りの型破り。この国に住まう人びとが必死に働いて納めた税金をどう使うのか。この国が抱える多くの課題に、どう対処するつもりなのか。首相たるもの、国権の最高機関である国会で説明し、できるだけ多くの納得を得るよう力を尽くすのは当然のことだ。イロハのイ、50音ならア、アルファベットならA。そこから始まる。そこからしか始まらない。
中東情勢の緊迫化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか。情報が入り乱れ、日に日に増す人びとの不安をなだめられるのは、政治リーダーの明確なメッセージしかない。ただし、メッセージとは単なる言葉ではない。思いの乗った、身体性を宿した言葉だからこそ人びとに届き、刺さる。ゆえに政治リーダーは「現れ」なければならないのだ。
中東情勢の緊迫化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか。情報が入り乱れ、日に日に増す人びとの不安をなだめられるのは、政治リーダーの明確なメッセージしかない。ただし、メッセージとは単なる言葉ではない。思いの乗った、身体性を宿した言葉だからこそ人びとに届き、刺さる。ゆえに政治リーダーは「現れ」なければならないのだ。
ところが高市首相は記者会見を開かない。ぶら下がり取材もごくまれ。言いたいことがある時はXに投稿し、終わり。
たとえば4月4日夕の投稿は「中東情勢に伴い供給が制約を受ける可能性がある重要物資の安定確保のための高市内閣の取組の現状について、説明致します」と、○○を実現した、××を進めていると日報のごとく細かく列挙したうえで、「繰り返しになりますが、原油及び石油製品の『日本全体として必要な量』は確保されています」。そして最後は「高市内閣の総力を挙げて、きめ細かく対応してまいります!」
“日本全体として必要な量”をカギカッコでくくる「大本営発表」ぶりも鼻につくが、それよりなにより、供給不足や値上げに頭を抱えている業者、人工透析が続けられるのかと不安におびえている患者らへ向けた、いたわりやねぎらいがひとことも、ただのひとこともないことには驚きを禁じ得ない。そして最後、突如として繰り出される「!」。私はやってる!私は間違ってない!――どんな局面でも「私」が前面に出てくる、この感じ。私はシンプルに、こわいと思う。
智恵子は「東京には空がない」と言ったが、私は「高市首相には『畏(おそ)れ』がない」と言いたい。多寡はともかく安倍―菅―岸田―石破首相には確かにあった、国民の命を預かっているという、畏れ。
想像してみる。権力者が極限状態に置かれ、「玉砕せよ!」と命を下さねばならぬ局面を。高市氏はとても滑らかに命じてみせるのではないかと、危惧する。
*
「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!」。コール&レスポンスが夜空に響く。歩道を埋め尽くす色とりどりのペンライトがそのたびに揺れ、美しい波となる――。8日夜、国会前で開かれたデモに、主催者発表で3万人が参加した。「国民なめるな!」のコールも聞こえる。この国の主は主権者ひとりひとりであることを、主権者にはパワーがあることを、光の波は教える。畏れを知らぬ首相もいずれ、この波を見るだろう。畏怖(いふ)せずにいられないはずだ。まともな権力者であるならば。「智恵子は「東京には空がない」と言った」は本題とはあまり関係ありませんが(笑)。しかし、「東京には空がない」と言った智恵子は、光太郎曰くかつてこの国に存在していた(現代でもそれに近い輩が居ますが)「傍若無人のがさつな階級」を「身ぶるひする程いやがつていた」そうです。
日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲ひの中にゐて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。
自らの半生と戦時中の翼賛活動を省察する連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)終末近くに置かれた詩です。新潮文庫版の『智恵子抄』に掲載されています。敗戦後のGHQ主導による大変革を目の当たりにし、それを智恵子がどう受けとめるか、という内容です。
そういうのであれば、なぜ智恵子が「身ぶるひする程いやがつていた」「傍若無人のがさつな階級」にとことん協力したんだ、と突っ込みたくなりますが、それをやらないわけにはいかない世情だったわけで……。
つくづく「傍若無人のがさつな」人物の思うようにされる、そういう世の中に戻してはいけないと、強く思います。
それでも気丈に生きる彼女に会って感動した光太郎は、「山道のをばさん」という詩も作りました。現地にはこの際に光太郎が訪れたゆかりの地ということで、短句「うつくしきものみつ」を刻んだ碑が建てられています。
上記『朝日』さんで槍玉に挙げられている「傍若無人のがさつな」人物、こういう書籍が出版される世の中に戻したいのでしょうか。
自らの半生と戦時中の翼賛活動を省察する連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)終末近くに置かれた詩です。新潮文庫版の『智恵子抄』に掲載されています。敗戦後のGHQ主導による大変革を目の当たりにし、それを智恵子がどう受けとめるか、という内容です。
そういうのであれば、なぜ智恵子が「身ぶるひする程いやがつていた」「傍若無人のがさつな階級」にとことん協力したんだ、と突っ込みたくなりますが、それをやらないわけにはいかない世情だったわけで……。
つくづく「傍若無人のがさつな」人物の思うようにされる、そういう世の中に戻してはいけないと、強く思います。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)18 『日本の母』
日本の母を頌ふ 作詞 佐藤春夫
信仰で乗切る荒波(樺太・水本ハマコさん) 甲賀三郎
北海道の原野を開墾(北海道・浅井リヘさん) 丸山義二
巨きな母の手(青森県・豊川やささん) 土師清二
嬰児・妊婦の温き母(岩手県・伊藤尚子刀自) 土屋文明
黙々と二十年(秋田県・佐々木スヱさん) 和田伝
日本一子宝部隊長(宮城県・白戸キミさん) 辰野九紫
雄々しや女集配手(山形県・土井於末さん) 結城哀草果
三代続く誉れの寡婦(福島県・室井キヤさん) 加藤武雄
忠臣の裔(東京府・篠尾はる子さん) 菊池寛
浅草の「日本の母」(東京府・平間りつさん) 久保田万太郎
明朗に豊かに生きてゐる人(茨城県・八代まつさん) 佐藤春夫
出征兵を叱る慈愛(栃木県・新井種子刀自) 長谷川伸
家の為に子の為にお国の為に(群馬県・小板橋はるさん) 佐佐木信綱
母性愛像ををろがむ(千葉県・富田てるさん) 吉植庄亮
遺愛の柿の木紅し(埼玉県・金子淳美さん) 大佛次郎
女手一つに護る田畑(神奈川・村野かめよさん) 岩田豊雄
巻頭(まきがしら)の妻の心(新潟県・星野とよさん) 貴司山治
女手で通した牛飼(富山県・三村ちよさん) 尾崎一雄
白衣の夫と卅七年(石川県・遠藤常盤さん) 深田久弥
良き母は良き妻(福井県・高島フジヲさん) 中野実
遺骨を抱きしめて(岐阜県・沼田ミツさん) 日比野士郎
真実こもる農作物(長野県・井上ツタエさん) 川端康成
山道の小母さん(山梨県・井上くまさん) 高村光太郎
萩咲く日(静岡県・鈴木せいさん) 水原秋桜子
男勝りの鎌・腰に(愛知県・橋本すずさん) 富安風生
母ひとり子ひとり(滋賀県・高橋政栄さん) 野澤富美子
花売り・日雇ひ二十年(京都府・谷本このさん) 川田順
右眼犠牲の機織り(大阪府・西田フジさん) 藤澤恒夫
老いてなほ増産報国(奈良県・松辺キクさん) 西條八十
扶助も断り青物行商(三重県・横山ちうさん) 古谷綱武
尊し・音なき愛の鞭(和歌山・久保まつゑさん) 大庭さち子
心に責む子の戦病死(兵庫県・前川きみさん) 豊田正子
故山に独り墓守り(鳥取県・山谷よしさん) 舟橋聖一
石見の国に我見たり(島根県・岡村トキさん) 尾崎喜八
戦死した子に済まぬ(岡山県・武田春さん) 棟田博
港の誇る「母の水船」(広島県・中村セキノさん) 竹田敏彦
空の子へ愛の座布団(山口県・氏木アキさん) 中山義秀
平凡の美徳(香川県・棚田キノさん) 壺井栄
塩田に働く健女(徳島県・西トクヱさん) 海野十三
戦盲の夫へ戦況地図(高知県・入間貴久衛さん) 濱本浩
五児に通ふ鍬の心(愛媛県・高井キクヨさん) 岡田禎子
誉の家守る苦闘三年(福岡県・三原乙女さん) 白井喬二
切々の書に戦友泣く(佐賀県・桃井フデさん) 小島政二郞
陶土にまみれ廿年(長崎県・太田フキさん) 福田清人
男も唸る材木担ぎ(大分県・森島マサキさん) 真杉静枝
親の心知る子供達(熊本県・野口ハルさん) 坪田譲治
兄は陸軍弟は海軍(宮崎県・高山ハツヲさん) 中村武羅夫
兵隊さん故伜さん〃(広島県・小村セイさん) 戸川貞雄
南風の章(沖縄県・比嘉カナさん) 劉寒吉
跋 読売新聞社編集局長 中浦義親
光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会によるものです。当時の『読売報知新聞』とタイアップ、同紙に49回にわたって連載された「日本の母」を一冊にまとめたもの。
黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「母」を顕彰するため、各府県の軍人援護会などの協力で取材対象者をピックアップし、光太郎ら49人の文士を現地に派遣して書かれました。
光太郎の稿「山道の小母さん」で取り上げられている井上くまは、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町上高下(かみたかおり)地区)在住の寡婦で、早くに夫を亡くし女手一つで育てた2人の息子は共に召集、この時点で次男の方は満州で戦病死していました。
光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会によるものです。当時の『読売報知新聞』とタイアップ、同紙に49回にわたって連載された「日本の母」を一冊にまとめたもの。
黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「母」を顕彰するため、各府県の軍人援護会などの協力で取材対象者をピックアップし、光太郎ら49人の文士を現地に派遣して書かれました。
光太郎の稿「山道の小母さん」で取り上げられている井上くまは、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町上高下(かみたかおり)地区)在住の寡婦で、早くに夫を亡くし女手一つで育てた2人の息子は共に召集、この時点で次男の方は満州で戦病死していました。
それでも気丈に生きる彼女に会って感動した光太郎は、「山道のをばさん」という詩も作りました。現地にはこの際に光太郎が訪れたゆかりの地ということで、短句「うつくしきものみつ」を刻んだ碑が建てられています。
上記『朝日』さんで槍玉に挙げられている「傍若無人のがさつな」人物、こういう書籍が出版される世の中に戻したいのでしょうか。





