4月2日(木)、光太郎忌日の連翹忌に合わせての発行となる定期刊行物2種、ご紹介します。
まず当方も加盟しております高村光太郎研究会から、『高村光太郎研究(47)』。
同会では毎年秋に研究発表会を行っておりまして、その際の発表者の方がそれを元に一文を寄せるという慣例になっています。そこで昨秋の第68回研究会の発表者、武蔵野美術大学さんの前田恭二教授が「雑司ヶ谷の季節―フユウザン会前夜を中心に―」。明治末から大正初めの一時期、智恵子も暮らした雑司ヶ谷に集った芸術家たちの人間模様、といった感じです。ちなみに『智恵子抄』所収の光太郎詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の「郊外」は雑司ヶ谷です。
それから光太郎と年の離れた従妹で、令和4年(2022)、105歳までご存命だった故・加藤照さんの子息、加藤千晴氏の「高村光太郎の渡米」。ご自宅に残る資料等を活用されてのものでした。
当方の拙稿が2本。まず1年間で発見した『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠」。散文「『新世界文学全集』推薦文」(昭和15年=1940)、アンケート「こうあってほしい鶏卵肉」(昭和26年=1951)、雑纂で「『詩洋』二十周年記念の会挨拶」(昭和18年=1943)、「詩集『智恵子抄』初版正誤表」、それから書簡が10通ちょっと。戦後、神奈川県の小学校教師だった岩本飛行六に宛てたものが7通まとめて見つかりましたし、斎藤茂吉、木山捷平などビッグネーム宛ても(1通ずつですが)。他に参考資料として、花巻郊外旧太田村に隠棲中の光太郎の訪問記。おそらく武者小路実篤の娘婿・穣の執筆と思われます。光太郎の語った言葉が中心ですが、地の文と分離しにくいので参考資料扱いにしました。昭和22年(1947)のものです。
さらにこのブログの昨年12月末に4回に分けて掲載したものをアレンジして「高村光太郎没後年譜 令和七年(二〇二五)」。
あとは主宰の野末明氏による一年間の「光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」です。
奥付画像、上の方に貼ってありますので、ご入用の方、そちらまで。
続いて当会発行の『光太郎資料 65』。手作りの冊子です。印刷のみは印刷屋さんに頼んでいますが。
「「光太郎遺珠」から」は、上記『高村光太郎研究』に20年ほど載せ続けている「光太郎遺珠」掲載作品をテーマや時期で区切って再掲しています。今回は昭和21年(1946)と翌年のもの。主に花巻郊外旧太田村での隠遁生活にまつわるものです。
「光太郎回想・訪問記」は、やはり太田村でそこに住んでいるのが光太郎とは知らずに偶然訪れたハンターが、後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。
「光雲談話筆記集成」は、光太郎の父・光雲の、確認出来ている限り最も古いもの。東京美術学校に奉職した明治22年(1889)の雑誌『国華』に載っていました。
それから、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里浜の紹介、昭和39年(1964)、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱でヒットした丘灯至夫作詞「智恵子抄」の紹介などとなっています。
ご入用の方はお申し付け下さい。送料実費のみでお頒けします。
また、一金10,000円お支払いいただければ、永続的に年2回(4月と10月)、お送りします。必要であれば第37集以降のバックナンバーも(一部は品切れでコピー)。当会顧問であらせられた北川太一先生編集の第36集までは、手元に1冊ずつしかありませんのでお頒けできませんが。
画論(1908・マチス) 高村光太郎 たわごと(1937・マチス) 硲伊之介
光太郎と軽く交流のあった、アンリ・マティスの大判の画集です。光太郎を筆頭に6名の解説文的な文章が掲載されています。
まず当方も加盟しております高村光太郎研究会から、『高村光太郎研究(47)』。
同会では毎年秋に研究発表会を行っておりまして、その際の発表者の方がそれを元に一文を寄せるという慣例になっています。そこで昨秋の第68回研究会の発表者、武蔵野美術大学さんの前田恭二教授が「雑司ヶ谷の季節―フユウザン会前夜を中心に―」。明治末から大正初めの一時期、智恵子も暮らした雑司ヶ谷に集った芸術家たちの人間模様、といった感じです。ちなみに『智恵子抄』所収の光太郎詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の「郊外」は雑司ヶ谷です。
それから光太郎と年の離れた従妹で、令和4年(2022)、105歳までご存命だった故・加藤照さんの子息、加藤千晴氏の「高村光太郎の渡米」。ご自宅に残る資料等を活用されてのものでした。
当方の拙稿が2本。まず1年間で発見した『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠」。散文「『新世界文学全集』推薦文」(昭和15年=1940)、アンケート「こうあってほしい鶏卵肉」(昭和26年=1951)、雑纂で「『詩洋』二十周年記念の会挨拶」(昭和18年=1943)、「詩集『智恵子抄』初版正誤表」、それから書簡が10通ちょっと。戦後、神奈川県の小学校教師だった岩本飛行六に宛てたものが7通まとめて見つかりましたし、斎藤茂吉、木山捷平などビッグネーム宛ても(1通ずつですが)。他に参考資料として、花巻郊外旧太田村に隠棲中の光太郎の訪問記。おそらく武者小路実篤の娘婿・穣の執筆と思われます。光太郎の語った言葉が中心ですが、地の文と分離しにくいので参考資料扱いにしました。昭和22年(1947)のものです。
さらにこのブログの昨年12月末に4回に分けて掲載したものをアレンジして「高村光太郎没後年譜 令和七年(二〇二五)」。
あとは主宰の野末明氏による一年間の「光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」です。
奥付画像、上の方に貼ってありますので、ご入用の方、そちらまで。
続いて当会発行の『光太郎資料 65』。手作りの冊子です。印刷のみは印刷屋さんに頼んでいますが。 「光太郎遺珠」から 岩手にて その三
光太郎回想・訪問記 宮本甲治 高村光太郎と出会う
光雲談話筆記集成 奈良の彫刻を観て
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 九十九里町(千葉県)
音楽・レコードに見る光太郎
丘灯至夫作詞「智恵子抄」(その一)
高村光太郎初出索引 (昭和13年に初出のあったもの)
編集後記
「「光太郎遺珠」から」は、上記『高村光太郎研究』に20年ほど載せ続けている「光太郎遺珠」掲載作品をテーマや時期で区切って再掲しています。今回は昭和21年(1946)と翌年のもの。主に花巻郊外旧太田村での隠遁生活にまつわるものです。
「光太郎回想・訪問記」は、やはり太田村でそこに住んでいるのが光太郎とは知らずに偶然訪れたハンターが、後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。
「光雲談話筆記集成」は、光太郎の父・光雲の、確認出来ている限り最も古いもの。東京美術学校に奉職した明治22年(1889)の雑誌『国華』に載っていました。
それから、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里浜の紹介、昭和39年(1964)、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱でヒットした丘灯至夫作詞「智恵子抄」の紹介などとなっています。
ご入用の方はお申し付け下さい。送料実費のみでお頒けします。
また、一金10,000円お支払いいただければ、永続的に年2回(4月と10月)、お送りします。必要であれば第37集以降のバックナンバーも(一部は品切れでコピー)。当会顧問であらせられた北川太一先生編集の第36集までは、手元に1冊ずつしかありませんのでお頒けできませんが。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)9 『マチス』
昭和14年(1939)12月10日 高見澤木版社 上村益郎編
目次画論(1908・マチス) 高村光太郎 たわごと(1937・マチス) 硲伊之介
マチスの頭のよさ 正宗得三郎 マチスを訪ふ 武者小路実篤
マチス師のこと 青山義雄 マチス論 トオマス・クラヴン
マチス伝その他 小野忠重
年譜
書誌
年譜
書誌
光太郎と軽く交流のあった、アンリ・マティスの大判の画集です。光太郎を筆頭に6名の解説文的な文章が掲載されています。





