今日、令和8年4月2日(木)は、第70回連翹忌です(「光太郎忌」という呼称は使っておりません)。本日午後には当方は、光太郎らの眠る染井霊園の髙村家墓所に参拝、その後、日比谷松本楼さんで全国から関係の方にお集まりいただき、集いを開催いたします。
翌年、同アトリエで記念すべき第一回連翹忌の集いが執り行われました。その際はリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。席上、春夫は黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
毎年同じようなことを書いていますが、昭和31年(1956)4月2日早暁、季節外れの大雪にすっぽり包まれた中野の中西利雄アトリエで光太郎が没し、ちょうど70年が経過しました。
翌年、同アトリエで記念すべき第一回連翹忌の集いが執り行われました。その際はリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。席上、春夫は黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
れんげうにかなしみのいろあらたなりきみゆきてよりひととせをへぬ
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ集いは連綿と続き(パリでの開催もありました)、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて今日に至っています。 日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、現在でも名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店ですし、光太郎も参加した芸術運動「パンの会」会場として使われたこともありました。途中、東日本大震災やコロナ禍により、集いは中止して代表者による染井霊園墓参だけとした年もありましたが、まがりなりにも70回の節目を迎えられたことを喜ばしく存じます。ひとえに皆様方のご協力の賜物と感謝いたしております。
連翹忌が今日であることにちなみ、近い日でということで、明後日、NHKラジオさんが光太郎の肉声を流して下さいます。来週土曜と2週連続の前後編です。
ついでというと何ですが(笑)、当会の祖・草野心平編が4月18日(土)と4月25日(土)です。
光太郎編については制作に協力させていただきました。流される肉声のうち、「彫刻と人生」は美術史家で晩年の光太郎に親炙した奥平英雄との対談で、昭和28年(1953)12月27日の録音、翌年1月7日に文化放送さんでオンエアされました。奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(瑠璃書房 昭和52年)に対談を収録したカセットテープが附録として付いており、そちらをお貸ししました。NHKラジオさんで光太郎の肉声は、一昨年、昭和24年(1949)に花巻郊外旧太田村での暮らしぶりを語った「朝の訪問」(聞き手は高橋忠アナウンサー)、同じ題で昭和27年(1952)に詩人の真壁仁と対談した録音も平成28年(2016)に使われ、それらNHKさんのアーカイブに残っている以外に何か無いか? というので。
ぜひお聴き下さい。
それから、連翹忌が近いからというわけではないのかもしれませんが、立て続けに新聞各紙に光太郎の名が。
3月31日(火)、『岩手日報』さん一面コラム。
引用されている詩はずばり「丸善工場の女工達」(大正9年=1920)。
丸善インキ工場は、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居の近くにありました。
続いて掲載順は前後しますが、3月30日(月)の『日本経済新聞』さん夕刊。
なるほど、「一面に沸き立つ生物の匂よ」。ふと思ったのですが、光太郎詩には「におい」「香り」が盛り込まれているのが結構あるような気がします。まんま「にほひ」という題名の詩(明治42年=1909)ともありますし、かの「レモン哀歌」(昭和14年=1939)では「トパアズ色の香気」。他にもあったような……。それを言えば、嗅覚以外にも味覚、触覚、聴覚、そして当然視覚の五感がフル活用されているようにも感じます。「五月の土壌」でも「入り乱れて響く呼吸の音」だの「わが足に通つて来る土壌の熱」だの……。こんなところに着目すれば論文の一本二本、直ぐに書けそうです(笑)。
もう1件、『東京新聞』さん。
今年は福島二本松出身の智恵子生誕140周年にもあたります。光太郎没後70年と併せ、各地でそれらを記念してのイベント等が計画(一部は既に実施)されております。
今後ともその灯を絶やすことなく、次の世代へと引き継いでいきたいと存じますので、 さらなるご助力をお願いいたします。
ホヰツトマン 長沼重隆 ボオドレエル 辰野隆 ヹルハアラン 高村光太郎
ショオ 石田憲次 ウェデキント 相良守峯 カイザー 武田忠哉
光太郎は敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンについて書きおろしています。
分冊もののペーパーバックで、同じシリーズに光太郎単独執筆の『現代の彫刻』があります。同じ年に出た第7回配本でした。
連翹忌が今日であることにちなみ、近い日でということで、明後日、NHKラジオさんが光太郎の肉声を流して下さいます。来週土曜と2週連続の前後編です。
NHKラジオ(AM) 2026年4月4日(土)/4月11日(土) ともに12:15-12:45
「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」は2026年4月からタイトルが「保阪正康が語る昭和人物史」になります。放送時間はNHK AM 土曜昼0時15分からです。放送後1週間、らじる★らじる聴き逃し配信でいつでも聴くことができます。
詩人で彫刻家の高村光太郎は、明治16年東京生まれ、東京美術学校を卒業した後、詩集「道程」を発表し注目されます。その後のちに妻となる長沼智恵子と生活を共にし、昭和16年に詩集「智恵子抄」を出版します。昭和27年3月にラジオ第2で放送した「自作朗読」では、光太郎が「千鳥と遊ぶ智恵子」などの詩を朗読。昭和29年1月に文化放送で放送した「彫刻と人生」では、智恵子の思い出や岩手での一人暮らしを語っています。
光太郎編については制作に協力させていただきました。流される肉声のうち、「彫刻と人生」は美術史家で晩年の光太郎に親炙した奥平英雄との対談で、昭和28年(1953)12月27日の録音、翌年1月7日に文化放送さんでオンエアされました。奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(瑠璃書房 昭和52年)に対談を収録したカセットテープが附録として付いており、そちらをお貸ししました。NHKラジオさんで光太郎の肉声は、一昨年、昭和24年(1949)に花巻郊外旧太田村での暮らしぶりを語った「朝の訪問」(聞き手は高橋忠アナウンサー)、同じ題で昭和27年(1952)に詩人の真壁仁と対談した録音も平成28年(2016)に使われ、それらNHKさんのアーカイブに残っている以外に何か無いか? というので。
ぜひお聴き下さい。
それから、連翹忌が近いからというわけではないのかもしれませんが、立て続けに新聞各紙に光太郎の名が。
3月31日(火)、『岩手日報』さん一面コラム。
通り雨が降る午後5時。東京・千駄木の通りで若い女性の工員たちと高村光太郎はすれ違う。その時の情景を詩にしている。〈ああすれちがつた今の女工達/丸善インキ工場の女工達/君達は素直だな〉▼〈さびしさうで賑(にぎ)やかで/つつましさうで快活だ/いろんな心配事がありさうで/又いろんな夢で一ぱいさうだ〉。寂しそうで控えめでも、にぎやかで快活。不安と夢が入り交じる工員たちを詩人は優しく見守る▼年度末の今だからかもしれない。若さへの賛歌であろうこの詩が、新たな一歩を踏み出す人への応援歌に響いてくるのは。あすの入社式に臨む若者たちも、いろんな心配事とともに、いろんな夢でいっぱいだろう▼新入社員だけではない。きょう退職辞令を受け、新しい世界に飛び込む人がいる。継続雇用でも、違う仕事に取り組む人がいる。転勤で新天地に赴く人がいる。不安と夢が入り交じるのは年齢に関係あるまい▼まだ見ぬ未来には、どんな世界が待っているのだろう。詩人は工員たちの姿に想像力を働かせる。〈さびしいが又たのしい世界/遠いやうで又近いやうな世界だ〉と▼入社の後も、退社してからも、人生の道のりは長い。長渕剛さんの「乾杯」から借りれば〈遙(はる)か長い道のりを歩き始めた君に幸せあれ〉。新たな世界で、「いろんな夢」がかないますように。
引用されている詩はずばり「丸善工場の女工達」(大正9年=1920)。
丸善工場の女工達
傘貸してくれる工場なんか外に無い事よ」
番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
午後五時の夕立の中を
足つま立つて尻はしよりしをらしく
千駄木の静かな通を帰つてゆく
ああすれちがつた今の女工達
丸善インキ工場の女工達
君たちは素直だな
さびしさうで賑やかで
つつましさうで快活だ
いろんな心配事がありさうで
又いろんな夢で一ぱいさうだ
想像もつかない面白い可笑しい夢でね
有り余る青春に
ぱつと花開いた君達だ
君達自身で悟るには勿体ないほどのだ酣酔だ
八百屋から帰つて来る
こののつぽのをぢさんを
君達の一人は見て笑つたね
をぢさんはその笑が好きなんだ
いはれも無く可笑しい笑を
丸善の番傘の中に一かたまり
若い小さな女工達は
雨のしぶきに濡れながらいそいそと
道をひろつて帰つてゆく
どうやら通り雨らしい土砂降の雨あし
ふと耳にした女工の言葉に
不思議な世界は展開する
さびしいが又たのしい世界
遠いやうで又近いやうな世界だ
何処かでもうがちやがちやが啼き出した
丸善インキ工場は、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居の近くにありました。
続いて掲載順は前後しますが、3月30日(月)の『日本経済新聞』さん夕刊。
ここだけの話だが、私には特殊能力が備わっている。そう思っていた。雨が降る直前に気付く。風が匂うのだ。
残念ながら、私以外にも類似の能力を持つ人々がいる。詩人、高村光太郎もその一人だ。「五月の土壌」には「野に まんまんたる気魄(きはく)はこもる (中略) 一面に沸き立つ生物の匂よ (中略) わが足に通(かよ)つて来る土壌の熱に 我は烈(はげ)しく人間の力を思ふ」という一節がある。土の生命力を讃(たた)えている。私は雨の匂いをエッセーに、高村光太郎は土の匂いを感知して詩に残した。
まだ5月ではないが、すでに土は匂い始めている。温暖化の影響だろうか、約110年前(大正3年)の東京の5月上旬の気温(16度)と現在の3月下旬の暖かい日の気温は近い。冬のあいだは土の匂いは少ないが、虫が動き出す暦(啓蟄(けいちつ)。今年は3月5日)を前後して土は匂いを増す。生物活動の証(あかし)だ。
特に、長く乾燥した土に雨が降ると、独特の香りがする。これはペトリコールと呼ばれ、ペトロスは石、イコールは神々の霊液を意味する。厳密には、石ではなく土から、神々の霊液ではなく根や微生物のエキスが出ている。乾燥を耐え抜くために植物や微生物が体内にため込んだ物質、雨によって死んだり増えたりした微生物の代謝産物、すなわちオナラが放出される。ペトリコールは単一の物質ではなく、数十以上の揮発性物質を含む。土の匂いは空気と反応し、雷とともにオゾンも発生させる。私が雨の直前に感知していたのも土の匂いだった。
雨が続くと「大地の香り」と呼ばれる匂い物質、ゲオスミンが増加する。放線菌(ストレプトマイセス属の細菌)が出すオナラだ。かつて砂漠の町を結ぶシルクロードを旅したラクダのキャラバンが迷子にならなかったのは、オアシスから漂うゲオスミンのおかげだ。細菌の出す匂いがラクダを呼び寄せ、ラクダが土を掘って水にありつくと、胞子が鼻に付着して細菌は労せず胞子を拡散できる。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。科学はいろいろと面白いことを教えてくれるが、私に現実を直視することを迫る厳しさもある。
皆が土の匂いを感知できることで落ち込んでいるのは私だけで、社会的にはプラスの面が大きい。土砂崩れが起きる手前、近隣住民から「腐った土の匂いがした」という証言が多数ある。この前兆もゲオスミンだ。酢酸発酵と同じ原理で、湿った土で増加する酢酸を取り込んだ放線菌がゲオスミンを大量に発生させる。伝統的な知恵と先端科学を活かせたならば、事前に避難して命を守る可能性が増す。
ゲオスミンは魚や水道の泥臭さの原因物質でもあり、私たちは口にする前に鮮度を判断できる。一方で、ゲオスミンはワインの香りに深みを与えることもある物質だ。特殊な匂いに気付くことができるかどうかは、日ごろから匂いを意識しているかどうかにかかっている。例えば、森からは松由来のピネン、広葉樹由来のリモネン(レモンの香り)などがごく微量に含まれている。土の中のあまたの微生物たちが放出している名もなき物質も多く含まれる。季節の香りを楽しむ特殊能力を持つのは私だけではないのだから。
「土壌」といえば宮沢賢治のような気もしますが(笑)。こちらで引用されているのは「五月の土壌」。内容的には、戦後花巻郊外旧太田村に隠棲し晴耕雨読の生活に入ってからのような感じですが、第一詩集『道程』に収められた大正3年(1914)、初期の詩です。
五月の土壌
五月の日輪はゆたかにかがやき
五月の雨はみどりに降りそそいで
野に
まんまんたる気魄はこもる
肉体のやうな土壌は
あたたかに、ふくよかに
まろく、うづたかく、ひろびろと
無限の重量を泡だたせて
盛り上り、もり上り
遠く地平に波をうねらす
あらゆる種子をつつみはぐくみ
虫けらを呼びさまし
悪きもの善きものの差別をたち
天然の律にしたがつて
地中の本能にいきづき
生くるものの為には滋味と塒とを与へ
朽ち去るものの為には再生の穏忍を教へ
永劫に
無窮の沈黙を守つて
がつしりと横はり
且つ堅実の微笑を見する土壌よ
ああ、五月の土壌よ
土壌は汚れたものを恐れず
土壌はあらゆるものを浄め
土壌は刹那の力をつくして進展する
見よ
八反の麦は白緑にそよぎ
三反の大根は既に分列式の儀容をなし
其処此処に萌え出る無数の微物は
青空を見はる嬰児の眼をしてゐる
ああ、そして
一面に沸き立つ生物の匂よ
入り乱れて響く呼吸の音よ
無邪気な生育の争闘よ
わが足に通つて来る土壌の熱に
我は烈しく人間の力を思ふ
なるほど、「一面に沸き立つ生物の匂よ」。ふと思ったのですが、光太郎詩には「におい」「香り」が盛り込まれているのが結構あるような気がします。まんま「にほひ」という題名の詩(明治42年=1909)ともありますし、かの「レモン哀歌」(昭和14年=1939)では「トパアズ色の香気」。他にもあったような……。それを言えば、嗅覚以外にも味覚、触覚、聴覚、そして当然視覚の五感がフル活用されているようにも感じます。「五月の土壌」でも「入り乱れて響く呼吸の音」だの「わが足に通つて来る土壌の熱」だの……。こんなところに着目すれば論文の一本二本、直ぐに書けそうです(笑)。
もう1件、『東京新聞』さん。
桜、菜の花が一斉に開花し、春の訪れを知らせる。福島市の支局に着任して5年8カ月。4月からは東京本社での勤務になる。
「ある日突然、住んでいた町から人が消えた。いったいどこに消えたんだろうって不思議な気持ちになる。人の声も、生活の音も、夕飯の香りも」
原発事故が起きた年の暮れ。福島第1原発で働く福島県浪江町の作業員が、避難で人影が消えた町の写真を見せながらつぶやいた言葉が心に残る。「何年かかっても帰りたい。山があって海があって、何があるってわけじゃないけど何より人がいい。1人でふらりと飲みに行っても親しい飲み仲間ができる。そんな町だった」
ふるさととは何か。東京で生まれ育った私は「何年たっても故郷に」という記事を書きながら、このとき何もわかっていなかった。原発事故から10年を前に、福島に住むようになってようやく「ふるさと」の意味を実感していく。
磐梯山、安達太良(あだたら)山、信夫(しのぶ)山…。福島の山は、雄大で険しい山もあるが、やさしい稜線(りょうせん)の山が多い。県内どこを車で走っても、周囲を山々に囲まれ、山に抱かれているような気持ちになる。それを自覚したのは、郡山市から新潟市に避難した人が福島を懐かしむ言葉がきっかけだった。「新潟にも海も山もある。でもここは平地が広く、海も山も遠く感じる」
避難先の家々を訪ねると、よく「ふるさとに風景が似ているからここにした」と聞いた。その気持ちに胸が痛んだ。
詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に書かれた「ほんとの空」の意味も知った。福島では、朝焼けから夕焼け、星空まで、とにかく空をよく見た。それは日常であり、空を見て地震が来ないか、あすの天気はどうかと地元の人に教えてもらった。いくつの美しい夕日を見ただろう。周辺の山々や紺碧(こんぺき)の海とともに心に残った。
ふるさとの風景だけではない。避難で地域のつながりが無くなったことは人々を打ちのめした。「車が通れば誰の車かすぐわかった」「雨が降ったら洗濯物を誰かが取り込んでおいてくれた」「野菜も魚ももらったりあげたりだった」「悩んでも、近所でお茶飲みしながら話すうちに気持ちが晴れた」「地域みんなで子育てをし高齢者を手伝うのは当たり前だった」
言葉の問題もあった。「福島の言葉が聞きたくて」。福島いのちの電話には、県外避難者からそんな電話がかかってくるという。
福島第1原発に他県から来た作業員から「コンビニでも話しかけてくれる。地元の人と交流するうちに、福島のために役に立ちたいと思うようになった」とよく聞いた。福島のために、と思わせる人間関係や人柄の良さがあった。
いつの間にか福島は私の帰りたい場所になっていった。そして思う。記者として話を聞き、1人でも心が少し晴れる時間がつくれただろうか。これは6年近く住み、これからも通う福島へのラブレターである。
今年は福島二本松出身の智恵子生誕140周年にもあたります。光太郎没後70年と併せ、各地でそれらを記念してのイベント等が計画(一部は既に実施)されております。
今後ともその灯を絶やすことなく、次の世代へと引き継いでいきたいと存じますので、 さらなるご助力をお願いいたします。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)6 『近代作家論』岩波講座世界文学第九回配本
昭和8年(1933)8月15日 岩波書店
目次ホヰツトマン 長沼重隆 ボオドレエル 辰野隆 ヹルハアラン 高村光太郎
ショオ 石田憲次 ウェデキント 相良守峯 カイザー 武田忠哉
光太郎は敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンについて書きおろしています。
分冊もののペーパーバックで、同じシリーズに光太郎単独執筆の『現代の彫刻』があります。同じ年に出た第7回配本でした。







