広島市に本社を置く『中国新聞』さん。文化面のコラム「緑地帯」が50周年だそうで、それを記念して50年前の昭和51年(1976)に掲載された、岡山出身の詩人・永瀬清子の連載「会いたる人々」8回分が再掲されました。平成7年(1995)に亡くなった永瀬が生前に親交のあった文学者たちの思い出を語るものです。

ラインナップは以下の通り。
いきなり初回が「髙村先生の呼び声」。
「中西伊之助」は「中西利雄」の誤記です。永瀬が中西アトリエを訪れたのは、確認出来ている限り昭和29年(1954)4月25日と翌30年(1955)2月25日の2回。それぞれ日記に「午前真壁仁、永瀬清子同道くる、午后二(時)頃辞去」「午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由」の記述があります。
語られているのはおそらく29年4月の初回訪問のことと思われます。昭和56年(1981)の永瀬のエッセイ集『かく逢った』に加筆訂正された「高村先生の呼び声」が収録されていて、それによれば「高村さんをお訪ねしたのはそれからあと、もう一、二度あったかと思います」とありますし、全体のニュアンスも久闊を叙したという感じですので。同道したはずの真壁仁については割愛されているようです。
『かく逢った』収録の加筆訂正された稿の方が、この際の訪問に関して詳しく語られていますが、末尾の「高村さんという山獄のようにそびえ立った人が、まるで一羽の雀(すずめ)のようにかわいそうでならなかった」あたりはかなりニュアンスが異なります。
ついでですので(笑)、当会の祖・草野心平の回。
こちらも『かく逢った』に加筆訂正され「親分草野心平さん」と改題されたものが掲載されています。そちらでは昭和28年(1953)3月15日(永瀬は「昭和二十六、七年頃」としていますが)、心平が経営していた居酒屋「火の車」開店一周年の際に訪問したことも記されています。「大きな大福帳に訪れた人の思い思いのサインが墨書されていた」とあります。そこには1ページ目に光太郎のそれも残されているのですが、永瀬の回想には書かれていません。
この日、日記に依れば光太郎は「火の車」には立ち寄っただけで長居はしなかったらしく、永瀬とはニアミスだったと思われます。
そして新宿モナミでの宮沢賢治追悼会。これについては、やはり『かく逢った』に収められている「「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――」という文章に詳しく語られています。
また、他に「会いたる人々」で取り上げられた佐藤惣之助、北川冬彦、仲町貞子、三好達治、小熊秀雄、井伏鱒二についても、おそらく「会いたる人々」からの加筆訂正が為された文章が『かく逢った』に収められています。さらに賢治実弟の宮沢清六、木下夕爾、宮本百合子、深尾須磨子、長谷川時雨、萩原朔太郎、横光利一、正宗白鳥らについてもそれぞれ項立てされています。古書市場でそう珍しくなく入手可能ですので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
日本美の源泉 埴輪の美 法隆寺金堂の壁画 夢違観音 神護寺金堂薬師如来
藤原期の仏画 能面「深井」
栗本が和綴じに仕立てた時点で、第四回の冒頭部分一枚が失われていまして、復刻出版のその箇所は、仕方がないので活字で補ってあります。その失われた一枚は、同じ中央公論社の編集者だった湯川龍造が譲り受けていたそうで、令和元年(2019)に売りに出て、驚きました。

ラインナップは以下の通り。
① 高村先生の呼び声
② 春芬・佐藤惣之助
③ 北川冬彦の背中
④ 詩人の妻(仲町貞子)
⑤ 前掛けと三好達治
⑥ 忙しい小熊秀雄の生命
⑦ 発見者・草野心平
⑧ うぶなる人・井伏鱒二先生
いきなり初回が「髙村先生の呼び声」。
高村光太郎先生が、戦後岩手の山奥から東京へ出て来られて、中野の中西伊之助画伯のアトリヱに落ちつかれたのは昭和二十七年のころだった。
私も戦後東京から岡山へ帰ってくらしていたが、夫が再び東京で勤務することになったので上京し、絶えて久しく高村さんにお会いしようとたずねていった。
中西家の玄関で女中さんに来意を告げると、高村さんの方へ伝えて下さったらしい。玄関につづくお座敷があけはなされていて広い中庭をへだてて高い屋根のアトリヱがみえている。すると縞(しま)のちゃんちゃんこを着た、なつかしい先生が思いがけずアトリヱの入り口にあらわれ、
「おーい、永瀬さあん」ととてつもなく大声で呼ばれた。それはまるで岩手の山の中で猟師が谷向こうの人を呼ぶような感じで、思わず私も「はあい」と答え、胸がせまった。
中西家の横の路地をアトリヱの方へいそぎながら高村さんがいとしく思えてならなかった。
戦争の責任をだれよりも強く感じて岩手の雪の中に自己を流謫(るたく)し、一人悔みの詩を書いていられた。そして今ようやく新しい彫刻作品を作ることによって、すべてを出なおしたいと決心して、老いた身で東京へ出て来られたのだ。でも今私を呼ばれたその度はずれな声は、まるでいじめっ子から母の懐へとびこむ幼な子のそれのようにも聞こえたではないか。
おおそんなことを言えば人にしかられるだろう。でも少なくとも高村さんはいろいろのことから開放されて、私と話したく思っていられるのにちがいないのだ。以前駒込林町に住んでいられ、私の詩集の序文をも書いていただいた時から十数年。智恵子夫人も今はなく戦争をへだて言うに言われぬ重く痛い月日が過ぎ去った。その時私には高村さんという山獄のようにそびえ立った人が、まるで一羽の雀(すずめ)のようにかわいそうでならなかった。
「中西伊之助」は「中西利雄」の誤記です。永瀬が中西アトリエを訪れたのは、確認出来ている限り昭和29年(1954)4月25日と翌30年(1955)2月25日の2回。それぞれ日記に「午前真壁仁、永瀬清子同道くる、午后二(時)頃辞去」「午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由」の記述があります。
語られているのはおそらく29年4月の初回訪問のことと思われます。昭和56年(1981)の永瀬のエッセイ集『かく逢った』に加筆訂正された「高村先生の呼び声」が収録されていて、それによれば「高村さんをお訪ねしたのはそれからあと、もう一、二度あったかと思います」とありますし、全体のニュアンスも久闊を叙したという感じですので。同道したはずの真壁仁については割愛されているようです。
『かく逢った』収録の加筆訂正された稿の方が、この際の訪問に関して詳しく語られていますが、末尾の「高村さんという山獄のようにそびえ立った人が、まるで一羽の雀(すずめ)のようにかわいそうでならなかった」あたりはかなりニュアンスが異なります。
ついでですので(笑)、当会の祖・草野心平の回。
昭和八年の春、はじめて草野心平さんが私の家へいらした。何かの会合ですでにお顔みしりだったが、そのころ職のない彼は名刺印刷の注文取りをしていて、その用で来たのだった。幸い夫が名刺の注文をし、草野さんは宮沢賢治の詩集「春と修羅」を、大変いい特集だから読んでごらんなさい、と言って置いていった。
私がその詩集を読むと全く今までにない詩集で、空の遠くに星雲が渦まいているように感じた。しかしその宮沢さんがどんな人かすこしもわからないし、そのことを尋ねようにも草野さんの所がまたわからない。名刺の注文取りはしても草野さん自身の名刺は作っていなかったのだ。でも注文した名刺が出来て来た時、きけると思い心待ちにしていたら私が留守の時、弟さんが注文品を置いていかれたので駄目(だめ)だった。こうして翌九年の二月までそのまま詩集は私の手許(もと)にあった。
何も知らぬ私はその作品だけを頼り、「麺麭」8月号に「宮沢賢治の“春と修羅”について」紹介と感想を書いたが、その雑誌をすぐ宮沢さんに送れたら、きっと生前読んでいただけたろうに、昭和八年九月二十一日に遠い岩手県で詩人は死なれ、ただ宮沢さんについて書いた最も早いものとしてこの拙(つたな)い文章は残った。
翌年の二月に宮沢さんの弟の清六さんが上京して来られ、その時宮沢さんの第一回追悼会が新宿モナミで催された。久々に草野さんに会って詩集がうちにあることを言うと、忘れっぽい草野さんはとてもよろこんだ。草野さんは私の所だけでなく、ありとあらゆる知人の所へその詩集を持ってまわり、そして宮沢発掘のために尽くしたのだ。
昨年はまた福島県の老女、吉野せいさんの「洟をたらした神」のために尽くし、大きな名声をかち得た。いい作品を発見する目と世の中へ紹介するための情熱、それはなまなかな者には不可能なことで、事実彼の詩人としての大きな仕事であった。
こちらも『かく逢った』に加筆訂正され「親分草野心平さん」と改題されたものが掲載されています。そちらでは昭和28年(1953)3月15日(永瀬は「昭和二十六、七年頃」としていますが)、心平が経営していた居酒屋「火の車」開店一周年の際に訪問したことも記されています。「大きな大福帳に訪れた人の思い思いのサインが墨書されていた」とあります。そこには1ページ目に光太郎のそれも残されているのですが、永瀬の回想には書かれていません。
この日、日記に依れば光太郎は「火の車」には立ち寄っただけで長居はしなかったらしく、永瀬とはニアミスだったと思われます。
そして新宿モナミでの宮沢賢治追悼会。これについては、やはり『かく逢った』に収められている「「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――」という文章に詳しく語られています。
また、他に「会いたる人々」で取り上げられた佐藤惣之助、北川冬彦、仲町貞子、三好達治、小熊秀雄、井伏鱒二についても、おそらく「会いたる人々」からの加筆訂正が為された文章が『かく逢った』に収められています。さらに賢治実弟の宮沢清六、木下夕爾、宮本百合子、深尾須磨子、長谷川時雨、萩原朔太郎、横光利一、正宗白鳥らについてもそれぞれ項立てされています。古書市場でそう珍しくなく入手可能ですので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)63 『日本美の源泉』
昭和47年(1972)8月10日 中央公論美術出版 高村光太郎著
収録作品日本美の源泉 埴輪の美 法隆寺金堂の壁画 夢違観音 神護寺金堂薬師如来
藤原期の仏画 能面「深井」
「著書」と言っていいものかどうかという感じのものではあります。昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、中央公論社から発行されていた雑誌『婦人公論』に全6回で連載された美術評論で、その草稿を同社編集者の栗本和夫が和綴じに仕立て、保管していたものをそのまま復刻し、二重函帙入り別冊解説付き限定300部・定価15,000円で刊行しました。別冊解説は当会顧問であらせられた故・北川太一先生でした。
栗本が和綴じに仕立てた時点で、第四回の冒頭部分一枚が失われていまして、復刻出版のその箇所は、仕方がないので活字で補ってあります。その失われた一枚は、同じ中央公論社の編集者だった湯川龍造が譲り受けていたそうで、令和元年(2019)に売りに出て、驚きました。








