光太郎と断続的に長い付き合いのあった佐藤春夫旧蔵資料の数々(光太郎関連を含む)が、佐藤の故郷・和歌山県新宮市の佐藤春夫記念館さんに寄贈されました。
まず、寄贈資料の一部を委託保管していた実践女子大学さんの1月21日(水)付けプレスリリース。
谷崎、芥川ら著名な作家と幅広い交流。近年、海外からも注目され
まず、寄贈資料の一部を委託保管していた実践女子大学さんの1月21日(水)付けプレスリリース。
大正期浪漫主義の旗手として活躍し、詩と小説の両分野において戦後にいたるまで文壇を牽引した作家・佐藤春夫(1892~1964)の旧蔵資料が、遺族の髙橋百百子氏より和歌山県新宮市立佐藤春夫記念館に寄贈されることになり、受贈式典が1月24日、実践女子大学渋谷キャンパスで遺族・新宮市長・実践女子大学学長らが出席して行われます。記録・保存のためデジタル撮影した新資料(挿絵原画・執筆資料・原稿・書簡等)だけで13000点以上に及びます。太宰治が芥川賞の受賞を望み、選考委員だった佐藤に懇願した書簡などがこれまでの調査でわかっており、今後、多くの文壇資料の発見が期待されます。
今回寄贈されるのは、和歌山県立近代美術館に保管中で、高村光太郎が若き佐藤を描いた「佐藤春夫像」(油彩画1914年)および実践女子大学に保管中の佐藤春夫資料一式(写真カット数13253枚分ほか)。
これらの資料は、佐藤春夫の長男佐藤方哉氏(1932~2010)が保管していたもの(一部は甥の竹田龍児氏(1908~1994)保管分を含む)で、2010年方哉氏没後、髙橋百百子氏(龍児氏長女・1941~)・牛山百合子氏(佐藤春夫研究者・1929~2020)・河野龍也氏(東京大学准教授/実践女子大学客員研究員・1976~)が、実践女子大学の支援を受けて整理を進めてきました。調査の過程で、芥川賞を懇願する太宰治の4mにおよぶ書簡(2015年報道)、佐藤春夫の1904年中学進学前後の日記(同)、芥川龍之介との親交を示す新出書簡(2022年報道)、太宰治の病状を報告する井伏鱒二の書簡(2023年報道)など発見が相次ぎ話題となりました。太宰治書簡は1935年~36年にかけて佐藤春夫に送られた43通(うち撮影済み42通)が確認されています。
今後「佐藤春夫デジタル文庫」を開設へ
実践女子大学は2022年8月、新宮市立佐藤春夫記念館と連携協定を結び、研究協力関係にあることから、今回の受贈式の会場を提供することになりました。大学図書館・文芸資料研究所を中心に、今後「佐藤春夫デジタル文庫」を開設する計画もあります。
寄贈された資料は式典後、新宮市(新宮市立佐藤春夫記念館)の帰属となり、一部は2026年秋に移転開館予定の佐藤春夫記念館の展示に活用されます。ただし当面は、現在資料を保管している和歌山県立近代美術館(高村光太郎油彩画)と実践女子大学(佐藤春夫資料一式)が管理を代行します。
谷崎、芥川ら著名な作家と幅広い交流。近年、海外からも注目され
佐藤春夫は新宮市出身。1918年に小説「田園の憂鬱」でデビュー。谷崎潤一郎、芥川龍之介との交流や、井伏鱒二、太宰治、戦後は第三の新人など幅広い人脈を誇り「門弟三千人」と称されました。1960年には文化勲章を受章しています。近年では「女誡扇綺譚(じょかいせんきだん)」(1925年)ほか1920年の台湾旅行関連作品や、漢詩漢文の自由訳、魯迅の翻訳紹介に先鞭をつけたことなど、文化交流に果たした役割が海外からも注目され、2020年には台湾文学館で特別展が開催されました。
河野龍也・東京大学准教授/実践女子大学客員研究員のコメント
新宮市立佐藤春夫記念館は文京区関口にあった旧邸を移築して1989年に開館したもの。当時、記念館には春夫長男の方哉(まさや)氏から春夫の遺品が寄贈されたが、書簡や原稿、絵画資料等のうち未整理のものが佐藤家にはまだ多数残されていた。方哉氏の没後、資料の調査を進めてきた。2026年、記念館が新宮市内で移築再開されるにあたり、春夫の故郷である新宮のために役立てたいと、ご遺族が資料の寄贈を決断された。実践女子大学による調査協力も継続される。近代文学を代表する作家の貴重な資料をこれだけの規模で散逸させずに保管されてきたご遺族の努力に敬意を表したい。
1927年に竣工した佐藤春夫邸は第二次世界大戦中の空襲被害に遭わなかった。戦前からの文壇資料が失われず残っていたのは極めて貴重。特に佐藤春夫は近代文学者では屈指の人脈を誇る。生涯にわたって受け取った手紙には、近代の文壇史が凝縮されている。春夫の師である与謝野鉄幹・生田長江・馬場孤蝶・永井荷風をはじめ、同世代の芥川龍之介・谷崎潤一郎・堀口大学・室生犀星、門弟であった井伏鱒二や太宰治など、年代や顔ぶれも豊か。書簡の分析から、文壇の人間関係で新しく分かることも多いだろう。
今回の寄贈品に、文学資料と美術資料が含まれていることも注目される。文学資料で大正期から晩年に及ぶ原稿の下書きが貴重。作品の推敲過程が分かる。特に大正期のものは記念館にもほとんど所蔵されていなかった。美術資料では高村光太郎による若き日の春夫像、石井柏亭による表紙絵原画、谷中安規の版画、島田訥郎の挿絵原画のほか、春夫自身によるデザイン案も残されている。今回の資料から、文学と美術の垣根を超えて芸術活動に取り組んだ春夫の全体像がさらに明らかになっていくことに期待したい。
【佐藤春夫資料受贈式典】
日 時:1月24日10:00-10:30
会 場:実践女子大学渋谷キャンパス(東京都渋谷区東1-1-49)501教室
その後、17階会議室(ファカルティラウンジ)にて展示資料を見学
出席者:髙橋百百子氏、上田勝之・新宮市長、辻本雄一・佐藤春夫記念館長、難波雅紀・実践女子大学学長、河野龍也・東京大学准教授/実践女子大学客員研究員ほか
受贈式典を報じた『紀南新聞』さん記事。
受贈式典を報じた『紀南新聞』さん記事。
大正、昭和期に活躍した新宮市名誉市民の作家、詩人・佐藤春夫の肖像画や、同時期に活躍した名だたる文豪が春夫に宛てた書簡などの貴重な資料が24日、同市新宮の佐藤春夫記念館に寄贈された。肖像画は親友の高村光太郎が描いたもので、太宰治、井伏鱒二など親交が深かった作家から送られた書簡のほか、執筆資料、原稿など実践女子大学(東京都)がデジタル化した1万3000点以上の膨大な資料とともに、一部が10月ごろリニューアルオープン予定の同館で展示される見通し。
資料は春夫の長男・方哉さん(故人)が保管していたもので、方哉さんが2010(平成22)年に死去して以降、遠戚にあたる高橋百百子(ももこ)さんらが同大学の支援を受けて整理を進めた。芥川賞の受賞を熱望していた太宰が、当時選考委員だった春夫に「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう(よう)。伏して懇願申し上げます」と訴える書簡や、挿絵入りの芥川龍之介の手紙など当時の文豪たちと春夫の関係が伝わるものが確認されている。
1989(平成元)年の記念館開館に際し、方哉さんから一部の資料が寄贈されたが、未整理のものが佐藤家に大量に残されていたという。東京都文京区の旧宅は、幸い空襲をまぬがれていた。
肖像画は、春夫と家族ぐるみの付き合いがあった光太郎が1914(大正3)年に描いた油彩画。和歌山市吹上の県立近代美術館に保管されており、合わせて寄贈が決まった。
東京都渋谷区のキャンパス内で同日、寄贈式が行われ、高橋さんから辻本雄一館長、上田勝之市長ら市関係者に肖像画と目録が手渡された。高橋さんは「春夫の地元で展示してくれてありがたい。大切に保存されることを願う」と話した。辻本館長は「文化的な展示に力を入れていきたい」と応じ、上田市長は「名誉市民第一号の関係資料を寄贈いただいたことは、地域の文化意識を高める大切な機会となる。資料群は地域の文化遺産を守り、育てるうえで極めて貴重であり、次代へとつなぐ架け橋になる」と期待感を示した。
また、記録、保存のためデジタル撮影が施されており、大学図書館内でも専門コーナーが設置される計画がある。国文学に詳しい河野龍也・東大准教授(実践女子大客員研究員)は「貴重な資料をこれだけの規模で散逸せず保管した遺族の努力に敬意を表したい。春夫が生涯にわたって受け取った手紙は、近代の文壇史が凝縮されている。春夫の全体像がさらに明らかになることを期待したい」とコメントした。
春夫は1892(明治25)年、旧新宮町生まれ。上京後の1918(大正7年)、自らの病的な心情を描写した「田園の憂鬱」でデビューし、数々の小説や詩、評論を残した。市出身で、短編小説「岬」で芥川賞を受賞した作家・中上健次にも影響を与えた。
寄贈を受けた新宮市立佐藤春夫記念館さんは、移転準備のため休館中。今秋、リニューアル開館予定だそうで、資料の一部はその際に展示予定だとのこと。
光太郎筆の佐藤肖像は和歌山県立美術館さんに寄託されていて、こちらも帰属が移ったそうですが、当面は同館で管理代行とのこと。他の資料類も引き続き実践女子大さんに留め置かれるようです。ちなみに上記画像に写っているのはセレモニー用に制作された複製でしょう。
13,000点以上にも及ぶということで、既に知られている貴重な資料以外にも、とんでもないものが含まれている可能性もありますね。
「生涯にわたって受け取った手紙には、近代の文壇史が凝縮されている。春夫の師である与謝野鉄幹・生田長江・馬場孤蝶・永井荷風をはじめ、同世代の芥川龍之介・谷崎潤一郎・堀口大学・室生犀星、門弟であった井伏鱒二や太宰治など、年代や顔ぶれも豊か。」と書簡の件が報じられていますが、そこに光太郎からのものが含まれていないかと期待しております。付き合いが長かったにもかかわらず、光太郎から佐藤宛の書簡はこれまで一通しか確認できていません。それも筑摩書房版『高村光太郎全集』には掲載されて居らず、20年程前に古書店で売りに出されたものでした。
もっとも、光太郎没後にすぐ始まった全集の編纂には佐藤も関わったはずなので、その時点で提供されなかったということは、既に佐藤の手元に無かったのかも知れませんが。
いずれにしても「佐藤春夫デジタル文庫」の開設が待たれます。
新宮の記念館さんにはまだ足を運んだことがありませんで、今秋、リニューアル開館後には一度ぜひ行ってみようと思っております。みなさまもぜひどうぞ。
詩集『道程』は大正3年(1914)に初版刊行、昭和15年(1940)には「改訂版」が出され、さらにこの「再訂版」。いずれも収録詩篇は大きく異なります。太平洋戦争末期と言っていいこの時期に、なぜ一篇の翼賛詩も含めずにこの「再訂版」を編んだのか、実に不思議な詩集です。
文庫サイズの小さな本で、戦後の昭和21年(1946)1月15日に第二刷が出されました。
光太郎筆の佐藤肖像は和歌山県立美術館さんに寄託されていて、こちらも帰属が移ったそうですが、当面は同館で管理代行とのこと。他の資料類も引き続き実践女子大さんに留め置かれるようです。ちなみに上記画像に写っているのはセレモニー用に制作された複製でしょう。
13,000点以上にも及ぶということで、既に知られている貴重な資料以外にも、とんでもないものが含まれている可能性もありますね。
「生涯にわたって受け取った手紙には、近代の文壇史が凝縮されている。春夫の師である与謝野鉄幹・生田長江・馬場孤蝶・永井荷風をはじめ、同世代の芥川龍之介・谷崎潤一郎・堀口大学・室生犀星、門弟であった井伏鱒二や太宰治など、年代や顔ぶれも豊か。」と書簡の件が報じられていますが、そこに光太郎からのものが含まれていないかと期待しております。付き合いが長かったにもかかわらず、光太郎から佐藤宛の書簡はこれまで一通しか確認できていません。それも筑摩書房版『高村光太郎全集』には掲載されて居らず、20年程前に古書店で売りに出されたものでした。
もっとも、光太郎没後にすぐ始まった全集の編纂には佐藤も関わったはずなので、その時点で提供されなかったということは、既に佐藤の手元に無かったのかも知れませんが。
いずれにしても「佐藤春夫デジタル文庫」の開設が待たれます。
新宮の記念館さんにはまだ足を運んだことがありませんで、今秋、リニューアル開館後には一度ぜひ行ってみようと思っております。みなさまもぜひどうぞ。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)28 『道程』再訂版
昭和20年(1945)1月15日 青磁社 高村光太郎著
目次
画室の夜 明治四十四年一月
寂寥 明治四十四年三月
声 明治四十四年五月
新緑の毒素 明治四十四年六月
はかなごと
父の顔 明治四十四年七月
泥七宝 明治四十四年七月――翌年六月
犬吠の太郎 大正元年九月
さびしきみち 大正元年十月
戦闘 大正元年十二月
山 大正二年十一月
冬の詩 大正二年十二月
牛 大正二年十二月
僕等 大正二年十二月
道程 大正三年二月
愛の嘆美 大正三年二月
瀕死の人に与ふ 大正三年三月
五月の土壌 大正三年五月
秋の祈 大正三年十月
「道程」以後
わが家 大正五年
晴れゆく空 大正五年
小娘 大正六年
無為の白日
海はまろく
花のひらくやうに
序曲 大正九年二月
米久の晩餐 大正十年八月
雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
かがやく朝 大正十年十月
クリスマスの夜 大正十一年
沙漠 大正十一年
冬の送別 大正十一年四月
五月のアトリエ 大正十一年五月
ラコツチイ・マアチ 大正十一年十一月
落葉を浴びて立つ 大正十一年十一月
冬の子供 大正十一年十二月
鉄を愛す 大正十二年五月
氷上戯技 大正十三年
偶作十一 大正十三年
少年を見る 大正十四年五月
或る墓碑銘 昭和二年十二月
葱 大正十四年十二月
車中のロダン 大正十四年八月
後庭のロダン 大正十四年二月
十大弟子 大正十五年
聖ジヤンヌ 大正十五年
冬の奴 昭和元年十二月卅日
怒 昭和二年三月
偶作八篇 昭和二年
母をおもふ 昭和二年八月
その年私の十六が来た 昭和二年
冬の言葉 昭和二年十二月
なにがし九段 昭和三年五月
旅に病んで 昭和三年十二月
存在 昭和三年十一月
何をまだ指してゐるのだ 昭和三年九月
その詩 昭和三年十二月
耳で時報をきく夜 昭和五年十月
刃物を研ぐ人 昭和五年六月
「猛獣篇」より
清廉 大正十三年十二月
傷をなめる獅子 大正十四年三月
苛察 大正十五年二月
雷獣 大正十五年六月
龍 昭和三年三月
詩集『道程』は大正3年(1914)に初版刊行、昭和15年(1940)には「改訂版」が出され、さらにこの「再訂版」。いずれも収録詩篇は大きく異なります。太平洋戦争末期と言っていいこの時期に、なぜ一篇の翼賛詩も含めずにこの「再訂版」を編んだのか、実に不思議な詩集です。
文庫サイズの小さな本で、戦後の昭和21年(1946)1月15日に第二刷が出されました。







