明日からは昨年暮れの報道等を紹介しますが、それに先だって松の内の間に正月っぽいネタを。

元日の『日本経済新聞』さん文化面から。

騎馬像は馬も上手い? 名将支える相棒、国内150体巡る  山口洋史(元JRA職員)

 伊達政宗、山内一豊、前田利家、井伊直政――。武将たちをたたえる騎馬像を見上げた時、注目されるのは主役の偉人だ。となると、下の馬は見過ごされがち。
 馬好きの多くは、生きた馬の美しさに魅了されて、彫像は見向きもしない。かくいう私も同類。仕事の前に馬に乗れると聞いて日本中央競馬会(JRA)に就職したくらいだ。
 騎馬像の馬を意識したきっかけは、2011年のイタリア旅行だ。ずっと見たかったダヴィデ像への道すがら、騎馬像に出会った。コジモ1世だ。馬は丸々と肥え、頭が小さく、軽快に動いているように見えた。でも、私が好きなのはサラブレッド。ちらっと見て、通り過ぎた。
 その後も騎馬像に出会う。フェルディナンド1世、エマニュエル2世、マルクス・アウレリウス帝。妙に印象に残った。
 帰国後しばらくして馬事講座のネタ探しをしていた時、ふと騎馬像を思い出した。案外面白いのでは。とはいえイタリアには簡単には行けない。日本の騎馬像でも巡るか。なんとなく始まったが、結局150ほどある各地の像を制覇した。
 日本の騎馬像でまず外せないのが皇居外苑(がいえん)にある楠木正成像だ。騎馬像巡りで最初に見た像だが、馬をずっと見てきた私でも驚くほど、とにかく馬が上手(うま)い。正成がイケメンなのもいい。
 1900年に完成したこの像は、別子銅山200年記念事業として当時の東京美術学校(現東京芸大)を代表する芸術家が集まって作った。高村光雲が正成の顔を作り、歴史画家の川崎千虎が史実を踏まえて甲冑(かっちゅう)の図案を作り、彫刻家の後藤貞行が実際の馬の解剖もしながら馬を担当した。原型作りに3年、完成まで10年かけた。
 馬はグーッと力を入れて進もうとするが、正成が手綱を引く。顎がぐっと後ろに引っ張られた馬は興奮しているのか、前膝を高く上げて目を見開いている。胸前、前肢の付け根、おしりの筋肉も盛り上がって、全身に力を蓄えている。
 「この体勢はありえない」。写実性を重視した後藤は、光雲に抗議したという。だが誇張やデフォルメで、前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感が伝わる。
 完成当初は馬が大きいという批判もあったらしいが、現代の目で見ると逆に馬が小さく、首も少し短く感じるかもしれない。ただ、とにかくエネルギーはすごい。
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 正成像は、日本でほぼ最初に作られた近代的な騎馬像だ。これだけ人と時間と費用をかけて最初からこんなものを作ったら、後続はどうしても似てしまう。
そんな中、独自路線を行く像もある。
 例えばJR鹿児島本線伊集院駅前にある島津義弘像。馬は後肢をぐっと曲げて踏ん張り、頭を左に少しひねりながら前半身を高く上げている。馬の首の部分の筋肉の力強く張り詰めた膨らみ、全身の流れるような美しいライン。前歯や後歯、歯が生えていない歯槽間縁も正確に作られている。同じ騎馬像でも馬の力強さを別の形で描写した彫刻家の中村晋也の想像力に圧倒される。

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 ところが、そもそも馬を理解せずに作られたものもある。馬の肢(あし)は人間の脚とは違う。私が見た限りでは、馬の肢が本来とは逆向きに、まるで人の腕や脚のように曲がった像が2体ほどあった。
 こんなの許せない――。当初はそう思った。でも、騎馬像を見ていくうちに考えは変わった。馬のひづめや蹄鉄(ていてつ)の正確さまで、ちゃんと捉えているのは彫刻家の北村西望ぐらい。それでも多くの像は、地域で大切にされている。精いっぱいの思いが込められている。
 愛知県吉良町(現西尾市)といえば、忠臣蔵の吉良上野介の地元だ。ここには、6体もの上野介の騎馬像があった。日本中に悪役と思われても、地元はこの殿を支えるという意気込みだろうか。
 北海道江別市の榎本公園にある榎本武揚像の馬は、いかにも騎馬像らしいダイナミックさはない。でも華奢(きゃしゃ)な体にもかかわらず目はキリッとしていて、武揚の指示をじっと待っている。旧幕府、新政府の両方で重用された偉人も、相棒の馬といつも一緒にあちこち回ったのかもしれない。
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 船に乗りレンタカーを借りて佐渡島の山奥の公園にたどり着くと合戦開始目前、2人の騎馬兵が向き合う像があった。馬の像はやや詰めが甘いところがあるものの、全体としてダイナミックだ。
 ところがはるばる来た公園の近くにあるのは公衆トイレぐらい。30分ほど見ていたが、そばを通るのはトイレを目指す地元の人ばかり。せっかくの騎馬像、もう少しかっこつけてあげてほしいが、史実に忠実に場所を選んだ結果なのだろう。
 作り手や設置者の思い、あるいは何かしらの事情が垣間見える騎馬像は、今の時代にも新たに作られている。どうせなら愛される像を作ってほしい。願わくば、馬にもどうか気を使ってあげてほしい。

当会としての今年の年賀状図案に使った皇居外苑の「楠木正成像」を真っ先に挙げて下さいました。ありがたし。

執筆された山口氏、元JRA職員とのことで、見方が違いますね。楠公像に関しては「前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感」という評がまさに我が意を得たり、という感じでした。

楠公像の馬を担当した後藤貞行は、このために東京美術学校に雇われました。光雲が当時の校長だった岡倉天心に頼み込んでの実現でした。後藤が「この体勢はありえない」と言ったエピソードは、光雲の談話筆記『光雲懐古談』を昭和42年(1967)に中央公論美術出版さんが『木彫七十年』の題で復刊した際に附された、光雲三男にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周による「あとがき」に語られています。

 楠公の馬は左足を勢いよくあげ、踵を上へまげている。ここが問題になった。馬の専門家である後藤さんは馬の足というものはあんなにあがるものではない、それは嘘だといって反対した。けれども父が話すには、嘘でも馬が勢い込んで走ってくるところを手綱をぐっとひきしぼる、勢いが余って足があがる、その動きの激しいところをみせるためにも、また銅像全体としてみて、颯爽とした形のいいところをみせるためにも、例え嘘でもよいから片足をあげないと格好がつかない、そういうことを父はいったけれども、後藤さんは何しろ正確なことを尊ぶ本当の研究家だから、嘘になるから私は出来ないという。それで非常に困ってしまった。父は、いや芸術というものはそういうものではない、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ。本当の馬のように作ると、かえって、少しも馬の勢いが出てこない、動勢というものがあらわれてこない、それではなんにもならない。嘘が本当にみえればそれでよいのだから、その気持ちをのみこんでもらわなくてはいけないということを、銅像制作の主任としての立場から、父はめんめんとして後藤さんを口説き、やっとのことで嫌がる後藤さんに承知してもらったという。

この件は『光雲懐古談』本文には記述がありません。それを書き残して置いてくれた豊周、グッジョブですね。もちろん、こうした措置を執った光雲、その提案をのんだ後藤もですが。まぁ、こうしたデフォルメは彫刻としては初歩的な技法ですが。しかし、こうした点、山口氏曰く「作り手や設置者の思い」を知った上で見るのと、そうでないのとではまるで見方が変わってくると思われます。

午年の今年、全国に150体以上あるという騎馬像、少し注意して観てみてください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)6 『ロダンの言葉』目黒分店版

大正10年(1921)11月28日 目黒分店 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版と装幀は異なりますが、中身の紙型は同一のようです。阿蘭陀書房は大正6年(1917)に社名をアルスと改称、そのあたりのバタバタもあってか『ロダンの言葉』の重版が十分に出来なかったようで、目黒分店版が刊行されました。

のちほどご紹介しますが、叢文閣からの正続2冊組の普及版も出されます。