『毎日新聞』さん12月11日(木)夕刊に載った、比較文学・比較芸術ご専門の東京大大学院教授・今橋映子氏の玉稿です。

美の越境 「新美術」を世に送り出す

 明治大正期、洋画の世界では、古美術ではないという意味での「新美術」をいかに世に広め、画家たちが自活でき、そして作品として評価されるか――が、大きな課題となっていた。
 岩村透(1870~1917年)という東京美術学校教授で美術批評家は、「要は食えないという問題をどうするか」を、若い美術家たちのために真剣に考え、新美術を売るための場所や戦略を考えた。
 その一つの解決法が、現代の画廊にあたる「新美術店」(あるいは「画堂」とも称す)の創設である。12(大正元)年開店の「画博堂」は岩村の強い勧めによるものであったという。岩村自身は同世代の工芸家たちとともに、「吾楽殿」(11年)を創始し、そこで最先端の工芸作品を厳しい相互批評で創り、一般市民に販売するという方策も立てた。
  同じく10年に、彫刻家で詩人であったあの高村光太郎も、「琅玕洞(ろうかんどう)」という画堂を開いたことは知られているだろうか。光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである。
 今回、埼玉県立近代美術館で単館開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展(2026年1月18日まで)は、光太郎と同世代、岩村より半世代若い写真家と洋画家、共に埼玉生まれの優れた創作家二人の、それぞれの歩みを堪能できる展覧会である。
 ただそれだけでない。今回は、銀行家の裕福な実家のお陰もあって、その富を画堂の創設や美術家支援に惜しみなく使った野島康三の活動と、彼と協働した斎藤与里の活動にも焦点を当てる、盛りだくさんの展覧会になっている。
 斎藤は野島に油彩画の技法を教えた存在だが、彼らは師弟というより、友人あるいは同志と言うべきだろうか。
 驚くのは野島の「兜屋画堂」(19~20年)、およびその後自邸を画堂とした活動(22~34年ごろ)で取り上げられた「新美術家」の名前である――梅原龍三郎、関根正二、村山槐多(かいた)、中川一政、恩地孝四郎といった洋画家たちのみならず、岡田三郎助を筆頭とする装飾美術家、藤井達吉や富本憲吉、高村豊周(とよちか)といった工芸家たち、あるいは山本鼎(かなえ)の児童画まで、ジャンルを超えた新しい才能が次々と紹介されたのである。
 野島自身は写真史ではいまやよく知られる存在で、岸田劉生の画風を思わせるような重厚なピクトリアリズム写真からスタートし、30年代には日本におけるモダニズム写真の根拠地となった雑誌『光画』(32~33年)の同人(他に中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男)であり、表現者であり、出資者でもあった。ここでもまた、日本の新興写真の支援者であったという見方ができる。
 10年代以降、東京には多くの画堂が開店し、新美術は、文展のような公的展覧とは別のルートを持つことで、社会と繋(つな)がり、顧客を得て、批評や評価の機会を得ることができた。つまり近代のアバンギャルド芸術は、こうした「場」の創始と不可分な関係にあったのだ。
 野島・斎藤の二人展は埼玉を機縁として、深く新美術創出の歴史へと私たちを連れていく。彼らのコラボレーションの熱気にあてられつつ、できるならば将来、吾楽殿、琅玕洞や兜屋画堂で開かれた展覧会そのものの再現展に立ち会えないだろうか――そんなむちゃな空想に浸りつつ、北浦和公園の深まる秋の小径(こみち)をたどった。
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野島康三「チューリップ」(1940年、京都国立近代美術館蔵)
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斎藤与里「秋海棠」(50年、埼玉県加須市蔵)
 
埼玉県立近代美術館さんで開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展をご覧になっての評というか随想というか、です。

光太郎と共にヒユウザン会(のちフユウザン会)を立ち上げた斎藤与里はともかく、野島康三という写真家については、当方、寡聞にして存じませんでした。ただ、野島が経営していたという「兜屋画堂」は、光太郎が開いた琅玕洞ともども日本近代美術史を論じた文献等に時折その名が出てくるので記憶の片隅にありました。

兜屋及び、その後、自邸を画堂とした中での出品作家に、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周の名が上げられています。そこで、文治堂書店さんから発売された『髙村豊周文集』を繙いてみたところ、第4巻に以下の記述がありました。

 大正八年には装飾美術家協会が結成された。広川君や私などの青年の工芸運動に大先輩が協調してくれた結果を示したのが此の協会だ。岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉といふ先生方が集つた。広川、髙村、西村敏彦、原三郎、その他の若手がみな一緒になつた。築地の精養軒で華々しい旗上げをして、第一回展を神田神保町の兜屋画堂で開いた。これは模範的な最高級画廊として当時の野島康三氏が経営に当たられたものだつた。
(「広川松五郎追憶」 昭和28年=1953)

「広川君」は豊周の盟友にして染織工芸家の広川松五郎です。

その他、兜屋画堂については随所で触れられていました。なるほど、という感じでした。ただ、光太郎と野島には深い関わりはなかったらしく、『高村光太郎全集』には野島の名は出て来ません。

玉稿では、兜屋に先行する光太郎の琅玕洞にも触れて下さいました。文脈としては連載のタイトルにもなっている「美の越境」ということで、「光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである」。

確かに琅玕洞では、斎藤、正宗得三郎、柳敬助、濱田葆光、荻原守衛、岸田劉生、津田青楓らの油彩画、石井柏亭の版画、西洋画の複製などの他、藤井達吉の工芸作品なども並べました。しかしそれらだけでは売り上げは芳しくなく、与謝野夫妻の短冊、父・光雲の伝手で板谷波山の陶器、伝統的な木工作品なども扱っています。そのあたりは経営していくためには、背に腹は替えられぬという判断においてであったようです。それでも経営的にはまるで成り立たず、僅か一年で大槻弍雄(つぐお)に譲渡されてしまいます。

さて、埼玉県立近代美術館で開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展、出品目録にその名はありませんでしたが、光太郎や豊周の名がキャプションに出たりといったことはありそうです。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
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【折々のことば・智恵子】

冬の朝しづかに銀葉の上、一すぢほのかなけむりを見つゝ玉露を飲むはこよない。甘美な刺戟が味覚に浸み、どこか奥底にとゞくとき感情は尽きぬ流れになる。併私達多くは言葉なく感じ、理解し、各々の無言のうちに心充つる静寂にして白熱する朝夕が生活におとづれたのをしる。


散文「画室の冬――ある日の日記――」より 昭和2年(1927) 智恵子42歳

雑誌『婦人之友』第21巻第2号に掲載された長い文章の一節です。公に発表されたものとしては智恵子の最後の文章となりました。