都内からシンポジウムのご案内です。
発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。
松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。
全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。
資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。
それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。
御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。
【折々のことば・智恵子】
必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。
「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。
定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。
『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。
彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。
こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。
それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。
第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ
期 日 : 2025年12月20日(土)
会 場 : ワイム貸会議室 お茶の水 Room B 千代田区神田駿河台2-1-20
Zoom オンライン (定員100名)
Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円
『明星』は、文芸と美術が共鳴しながら鮮度の高い情報を発信し続けた目覚ましい雑誌でした。
創刊時の明治33年4月こそタブロイド紙の体裁でしたが、同年9月から雑誌スタイルに移行し、41年11月に終刊するまで、文芸と美術が相互に響き合う斬新な美学としてそれは続いたのです。アールヌーヴォーの影響を受けた一條成美の初期の表紙は若者の心を捉えるのに十分でした。
しかし、何と言っても『明星』を画期的な文芸誌にしたのは、美術団体「白馬会」との密接なかかわりによるものです。「白馬会」は黒田清輝らを中心に結成されましたが、メンバーのうち藤島武二、和田英作らは『明星』の表紙を印象的に飾りました。また、与謝野晶子の有名な歌集『みだれ髪』『小扇』の装丁と表紙は藤島によるものです。同じく「白馬会」の中澤弘光は、詩歌集『恋衣』の表紙・挿画を手始めに、多くの晶子歌集や『新訳源氏物語』『新訳栄華物語』の表紙・挿画を彩ることになります。
忘れてならないのは、『明星』同人で、彫刻家・詩人の高村光太郎の存在です。
今回は、『明星』と美術との記念碑的なかかわりを多角的に探ってみたいと思います。
対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。
●申し込み手順● 下記 ① から ② へ進んでください
①.以下の口座に、参加費一人2千円、をお振り込み願います
三井住友銀行 下丸子支店(普通)3897723
受取人名:AKIKO 2005 YEAR ダイヒヨウ マツダイラ メイコ
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
●申し込み〆切● 12月18日(木)15:00(定員100名)
●プログラム● 講演
「與謝野晶子 美しい本の世界へ」 森下明穂(与謝野晶子記念館・学芸員)
「美術実作者としての高村光太郎」 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会・代表)
「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」 松平盟子(歌人)
というわけで、明星研究会さん主催のシンポジウムです。発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。
松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。
全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。
資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。
それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。
御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。
【折々のことば・智恵子】
必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。
散文「貧しく、飾らず、単純であれ」より 大正12年(1923) 智恵子38歳
「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。
定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。
『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。
彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。
こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。
それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。

