まず昨日から今日にかけマスコミ各社で報じられた訃報から。

それも2件立て続けでしたが、最初に長野県安曇野市の太田寛市長。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの理事を務められ、昨年今年の碌山忌では同じテーブルに着かせていただき、いろいろお話しさせていただいた方ですので、非常に驚いております。

共同通信さん。

太田寛さん死去 長野県安曇野市長

 太田 寛さん(おおた・ゆたか=長野県安曇野市長)28日午前8時59分、急性心臓死のため市内の病院で死去、69歳。
 同県出身。自宅は同市堀金烏川。葬儀の日取りは未定。
 長野県副知事を経て2021年の市長選で初当選。現在2期目だった。 
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SBC信越放送さんのローカルニュース。

安曇野市の太田寛市長が急逝 自宅で就寝中に亡くなったか 死因は急性心臓死 前日夕方まで会議に出席するなど公務 元長野県副知事

 安曇野市の太田寛市長が28日、亡くなりました。69歳でした。死因は急性心臓死だということです。
  10月の安曇野市長選挙で、無投票で2度目の当選を果たした太田寛市長。自宅で就寝中に亡くなったと見られています。
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 市は28日午後1時から緊急の会見を開きました。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「突然の訃報に職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いております」
 市によりますと、太田市長は、27日夕方まで会議に出席するなど公務を行っていました。しかし、自宅で就寝したまま起きてこなかったため28日朝、家族が119番通報し搬送先の市内の病院で、午前9時前に死亡が確認されました。急性心臓死だということです。
 太田市長は安曇野市堀金出身で県の総務部長や副知事を務めた後、2021年に安曇野市長に初当選しました。
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 今年5月の「安曇野」ナンバーの実現に奔走するなど地元愛の強かった太田市長。
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 28日から職務代理者を務める中山栄樹副市長は。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「4年間足場を作って、これから芽を出して根付かせようという時で、4年間のいろいろな面から考えると安曇野市にとって大きな損失です」
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 市長選挙は29日以降、市が選挙管理委員会に市長の死亡を通知し、そこから50日以内に行われます。

地元紙『信濃毎日新聞』さん。

安曇野市長の太田寛さん死去 69歳、10月に再選したばかり

 安曇野市の太田寛(おおた・ゆたか)市長が28日午前8時59分、急性心臓死のため安曇野市内の病院で死去した。69歳。安曇野市出身。自宅は安曇野市堀金烏川。
 太田氏は京都大卒。1979(昭和54)年に県職員になり、商工労働部長や総務部長を経て副知事を務め、2021年の市長選で初当選。10月5日告示の市長選で無投票で再選したばかりだった。
 太田氏の死去に伴う安曇野市長選は、公職選挙法に基づき、市選挙管理委員会に死亡の通知が届いてから50日以内に行われる。
 死去したことが28日に分かった安曇野市長の太田寛さん。経歴はこちら。
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 1956年生まれ。安曇野市出身で、松本深志高校(松本市)、京都大法学部を卒業し、1979(昭和54)年から県職員。企画局長や商工労働部長、総務部長を歴任し、2015年2月から副知事を務めた。2021年の安曇野市長選で、無所属新人2人を破って初当選。今年10月から2期目を務めていた。
 趣味は読書で、安曇野市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」が愛読書。
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『朝日新聞』さん。

長野・安曇野市長が死去 自宅から救急搬送、10月に再選された矢先

 長野県安曇野市の太田寛(ゆたか)市長(69)が28日、急性心臓死のため死去した。市によると、28日朝に自宅から救急搬送され、市内の病院で午前8時59分に死亡が確認された。通夜・葬儀の日程は未定。太田市長は10月5日に告示された市長選で、無投票で再選したばかりだった。市が28日、記者会見を開いて発表した。
 市によると、太田市長は27日に市議会定例会に出席。夜は松本市内であった連合長野松本広域協議会の定期総会に来賓として出席し、午後8時半ごろに安曇野市内の自宅に帰宅した。28日午前8時半ごろ、市職員が公用車で迎えに行くと、自宅前に救急車が来ていて病院に搬送された。
 中山栄樹副市長によると、27日の市議会定例会でも特に変わった様子はなかったが、「この2、3日、風邪っぽい」と言って、マスクを着用していた。中山副市長は「突然の訃報(ふほう)に、職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いている。行政の継続性に万全を期したい」と語った。市長の職務代理者には中山副市長が就いた。
 太田市長は元県職員で、県総務部長や副知事を経て、2021年10月の市長選で初当選した。2期目では、企業誘致の推進やフィルムコミッション機能の強化を盛り込んだ観光政策などを公約に掲げていた。市の知名度を上げることに力を入れ、首都圏で安曇野産農産物をPRする事業を開催したり、臼井吉見の小説「安曇野」を復刊させることに取り組んだりした。中山副市長は「元副知事としての人脈でできたことが、相当あった」と振り返った。
 公職選挙法では市長に欠員が出た場合、5日以内に職務代理者が選挙管理委員会に通知し、通知から50日以内の選挙の実施が定められている。
 阿部守一知事は「あまたのご功績に深甚なる敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでお悔やみを申し上げます」とコメントを出した。
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『信毎』さんと『朝日』さんで触れられている、小説『安曇野』。光太郎の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)が掲載された雑誌『展望』編集長を務め、光太郎とも交流のあった同市出身の臼井吉見が昭和40年代に執筆した長編で、守衛を含む安曇野の人々が中心に描かれ、守衛との絡みで光太郎も登場します。

太田市長、その復刊に尽力された他、NHK大河ドラマ化運動、さらに理事を務められていた碌山美術館さんでの講演などもなさっていました。こうした地元の文化遺産に対するご理解の点では、地方首長の鑑と言える方でしたので、非常に残念でなりません。後任の方にも太田市長の功績を受け継いでいっていただきたいものです。

もう1件、やはり昨日出た訃報です。

作家の嵐山光三郎さん死去 エッセーやテレビ番組で人気

009 軽妙なエッセーやテレビのバラエティー番組でも人気を集めた作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)さんが14日午後、肺炎のため死去したことが28日、分かった。83歳。静岡県出身。葬儀は近親者で行った。
 国学院大を卒業後、平凡社に入社。雑誌「太陽」編集長などを務めた。独立後に雑誌「ドリブ」やテレビの人気バラエティー番組「笑っていいとも!増刊号」編集長を務め、1980年代の若者文化の担い手となった。
 「たのC(シー)のでR(アール)」といった「ABC文体」を駆使したエッセー、インスタントラーメンの評論なども手がけ、料理や温泉などにも健筆を振るった。「素人庖丁記」で講談社エッセイ賞を受賞した。
 「文人悪食」「文人暴食」では作家や歌人、学者らの食欲と創作欲の関わりに注目。松尾芭蕉の人間くさい側面に迫った「悪党芭蕉」では泉鏡花文学賞と読売文学賞を受けた。
 92年には日本人のコメ離れに歯止めをかけようと「日本ごはん党」を結成したことでも話題に。旅や釣りの愛好家としても知られた。

探せば他にもあるのかも知れませんが、「食」にもこだわりの強かった嵐山氏、『文人悪食』、『文士の料理店(レストラン)』『文士の御馳走帖』で、光太郎に触れて下さいました。
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『悪食』は「高村光太郎…咽喉に嵐」。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)をはじめ、光太郎の「食」に関わる詩文を15篇ほども引用、マイナーなそれも含まれていて、感心いたしました。『料理店(レストラン)』では「高村光太郎と米久」と題し、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)を中心に。浅草米久さんのレポートもカラー画像入りで入っています。『御馳走帖』でも米久さんが取り上げられ、小題は「高村光太郎 米久の晩餐 梅酒 こごみの味」でした。こちらはアンソロジーです。

最後に、宮城県歌人協会会長などを務められた佐久間晟氏。亡くなったのは今年3月ということでしたが存じ上げず、つい先日、奥様のすゑ子様から喪中葉書が届いて知った次第です。氏は大正15年(1926)のお生まれで、亡くなった際は満99歳だったそうです。
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光太郎とも交流のあった歌人の前田夕暮に師事、奥様ともども歌誌『地中海』同人としてもご活躍。そして昭和26年(1951)、奥様との新婚旅行で花巻郊外旧太田村の光太郎の寓居を訪ねられました。右上の画像がその際のもの。右端が氏で、そのお隣が奥様、光太郎、左端はお二人を光太郎の元に案内してくれた花巻温泉の仲居さん・八重樫マサです。

昭和26年(1951)11月9日の光太郎日記より。

塩がまの人佐久間氏といふ人新婚にて花巻松雲閣より八重樫マサさんの案内で来訪、前田夕暮の弟子の由。

この際の様子を奥様が『地中海』平成17年1月号に短歌と文章で書かれ、たまたまその情報を得ましてお二人に連絡、お二人がお住まいの仙台でお会いし、貴重なお話を伺う事が出来ました。さらに晟氏の運転で松島まで行き、豪華海鮮料理を御馳走になってしまった次第です。
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さらに上記写真を送った光太郎からの礼状(『高村光太郎全集』にもれていたもの)も拝見。
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その際お聞きした内容を『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007)に「高村山荘訪問記 佐久間晟・すゑ子夫妻聞き書き」として掲載させていただきました。

そんなこんなが昨日のことのように思い出されます。

お三方のご冥福、心より祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

いとほしい髪の一すぢより 感情のはげしい瞬刻の閃光まで 私にとつては宝玉だ 抜きさしならない玉条だ


詩「無題録」より 大正3年(1914) 智恵子29歳

智恵子肖像このブログでは平成29年(2017)の元日から【折々のことば・光太郎】と題し、光太郎の書き残したもの、談話筆記、講演会筆録などから「これは」と思う一節を取り上げ続けてきました。それもそろそろネタ切れとなって参りまして、今日からは【折々のことば・智恵子】にします。智恵子が書き残したものはあまり多くないのですが、それでもやはり「これは」というものがありますので。

また、あまり取り上げられることの多くない智恵子自身の言葉を紹介することで、『智恵子抄』の裏側にどういう智恵子が居たのか、そんなことも語りたいと思っております。

初回は確認出来ている限り唯一の智恵子が書いた詩から。大正3年(1914)ですので、光太郎と結婚披露をする年で、その4ヶ月前に母校・日本女子大学校の同窓会誌『家庭週報』に寄稿したものです。当時としては遅まきの結婚でしたが、万物がキラキラ輝いて見えていた結婚直前の心境が垣間見えます。