訃報、というか、近々執り行われる「お別れの会」二件の情報です。
お二人とも、今年6月と7月に亡くなられていましたが、当方、報道等見落としておりまして、自宅兼事務所に「お別れの会」の開催通知を頂いて初めて亡くなったことに気づきました。
お一人目、水野清氏。『明星』時代からの光太郎の親友・水野葉舟の子息にして、建設大臣や総務庁長官などを務められた元衆議院議員です。
先月初めに共同通信さん配信で訃報が出ていました。
お二人とも、今年6月と7月に亡くなられていましたが、当方、報道等見落としておりまして、自宅兼事務所に「お別れの会」の開催通知を頂いて初めて亡くなったことに気づきました。
お一人目、水野清氏。『明星』時代からの光太郎の親友・水野葉舟の子息にして、建設大臣や総務庁長官などを務められた元衆議院議員です。
先月初めに共同通信さん配信で訃報が出ていました。
水野清元総務庁長官が死去 行革推進、橋本首相を補佐
橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官として中央省庁再編の実現などに尽力し、建設相や総務庁長官も務めた水野清(みずの・きよし)氏が7月28日午後11時、老衰のため東京都内の老人ホームで死去した。94歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻陽子さん。
1983年、中曽根内閣で建設相で初入閣。自民党総務会長などを経て、89年には総務庁長官に就任した。96年の衆院選に出馬せず、国会議員を引退後、橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官になった。橋本龍太郎首相が会長を務める行政改革会議の事務局長として、中央省庁再編を柱とする最終報告のとりまとめに尽力した。
先週、「お別れの会」のご案内が届きました。
ご自身、ご幼少のみぎりから光太郎をご存じで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、昭和8年(1933)、満7歳の水野氏に送った光太郎からの年賀状が掲載されています。
しんねんおめでたうごさいます おはがきありがと おばさんからもよろしく 高村光太郎 昭和八年一月三日
「おばさん」は存命だった智恵子ですね。
成人された水野氏、NHKさんに入社、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元に足繁く通われました。NHKさんの仕事として亀井勝一郎と光太郎の対談に関わったり、父君・水野葉舟の歌碑建立に光太郎の力を貸して貰ったりするためでした。
光太郎歿後は、父君の暮らされていた成田三里塚に建てられた光太郎「春駒」詩碑の建立(昭和52年=1977)に奔走されたり、政界入りされてご多忙だったにもかかわらず連翹忌にもかなりの回数ご参加下さったりしました。
もうお一方、出版社・二玄社さんの元会長の渡邊隆男氏。亡くなられたのは6月だそうですが、昨日、やはり「お別れの会」の通知を頂きました。
調べてみましたところ『毎日新聞』さんには6月18日(火)に訃報が出ていました。
二玄社さんからは、光太郎に関わる書籍がたくさん出版されています。書の作品集『高村光太郎書』(初版・昭和34年=1959、改訂新版・昭和41年=1966)、光太郎の手控え原稿をそのまま写真製版にした『高村光太郎全詩稿』上下二冊(昭和42年=1967)。
さらに智恵子の紙絵作品集『智恵子その愛と美』(平成9年=1997)、光太郎の彫刻、絵画、書などの写真集的な『高村光太郎 美に生きる』(平成10年=1998)、光太郎の書や書論を紹介する『高村光太郎 書の深淵』(平成11年=1999)、光太郎がその生涯を振り返って書いた連作詩「暗愚小伝」にスポットを当てた『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(平成18年=2006)、女川を含む三陸一帯を旅した光太郎の足跡を追う『光太郎 智恵子 うつくしきもの "三陸廻り"から"みちのく便り"まで』(平成24年=2012)などなど。すべて当会顧問・北川太一先生の編刊です。
そして渡邊氏、水野氏同様、お忙しい中、連翹忌にたくさんご参加下さっていました。ありがたいかぎりです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
Mite iruto hitorideni hohoemare, Yononaka ga ôkiku nari, Shimai ni a-haha to waratte shimau.
駒込林町の住居兼アトリエの前を通る千駄木小学校の児童をモチーフにした詩で、雑誌『RÔMAJI』に寄稿されたため、全文ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下すと「見てゐるとひとりでにほほゑまれ、世の中が大きくなり、しまひにあははと笑つてしまふ。」となります。
昭和初め、水野清少年に会った際にもこのように感じたのでしょうか。
先週、「お別れの会」のご案内が届きました。
ご自身、ご幼少のみぎりから光太郎をご存じで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、昭和8年(1933)、満7歳の水野氏に送った光太郎からの年賀状が掲載されています。
しんねんおめでたうごさいます おはがきありがと おばさんからもよろしく 高村光太郎 昭和八年一月三日
「おばさん」は存命だった智恵子ですね。
成人された水野氏、NHKさんに入社、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元に足繁く通われました。NHKさんの仕事として亀井勝一郎と光太郎の対談に関わったり、父君・水野葉舟の歌碑建立に光太郎の力を貸して貰ったりするためでした。
光太郎歿後は、父君の暮らされていた成田三里塚に建てられた光太郎「春駒」詩碑の建立(昭和52年=1977)に奔走されたり、政界入りされてご多忙だったにもかかわらず連翹忌にもかなりの回数ご参加下さったりしました。
もうお一方、出版社・二玄社さんの元会長の渡邊隆男氏。亡くなられたのは6月だそうですが、昨日、やはり「お別れの会」の通知を頂きました。
調べてみましたところ『毎日新聞』さんには6月18日(火)に訃報が出ていました。
渡辺隆男さん
渡辺隆男さん 90歳(わたなべ・たかお=出版社「二玄社」会長)16日、肺炎のため死去 。葬儀は近親者で営む。二玄社さんからは、光太郎に関わる書籍がたくさん出版されています。書の作品集『高村光太郎書』(初版・昭和34年=1959、改訂新版・昭和41年=1966)、光太郎の手控え原稿をそのまま写真製版にした『高村光太郎全詩稿』上下二冊(昭和42年=1967)。
さらに智恵子の紙絵作品集『智恵子その愛と美』(平成9年=1997)、光太郎の彫刻、絵画、書などの写真集的な『高村光太郎 美に生きる』(平成10年=1998)、光太郎の書や書論を紹介する『高村光太郎 書の深淵』(平成11年=1999)、光太郎がその生涯を振り返って書いた連作詩「暗愚小伝」にスポットを当てた『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(平成18年=2006)、女川を含む三陸一帯を旅した光太郎の足跡を追う『光太郎 智恵子 うつくしきもの "三陸廻り"から"みちのく便り"まで』(平成24年=2012)などなど。すべて当会顧問・北川太一先生の編刊です。
はっきり言うと、商業的にはあまりものにならない出版物ですが、いずれも光太郎智恵子を語るには必携の書。採算を度外視してこうした良書を世に送り続けた心意気に感服します。
そして渡邊氏、水野氏同様、お忙しい中、連翹忌にたくさんご参加下さっていました。ありがたいかぎりです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
Mite iruto hitorideni hohoemare, Yononaka ga ôkiku nari, Shimai ni a-haha to waratte shimau.
詩「Fuyu no Kodomo」より 大正11年(1922) 光太郎40歳
駒込林町の住居兼アトリエの前を通る千駄木小学校の児童をモチーフにした詩で、雑誌『RÔMAJI』に寄稿されたため、全文ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下すと「見てゐるとひとりでにほほゑまれ、世の中が大きくなり、しまひにあははと笑つてしまふ。」となります。
昭和初め、水野清少年に会った際にもこのように感じたのでしょうか。