昨日は都内で開催された第68回高村光太郎研究会に参加しておりました。レポートいたします。

会場は文京区のアカデミー向丘さん。
PXL_20251123_045504387
PXL_20251123_045544774
お二人の方の発表でした。

まず、中島宏美氏。「吹木文音」のペンネームで詩人として活動されています。
PXL_20251123_051342872
発表題は「智恵子へ寄せる思い」。

氏は智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島郡山にお住まいだったこともおありだそうで、小学校4年生の頃に読まれた新潮文庫版の『智恵子抄』の思い出、智恵子紙絵の美しさ、そして智恵子という人物そのものの魅力などについて、詩人ならではの視点で語られました。

下画像はレジュメ1ページ目です。
001
稀有な詩集としての『智恵子抄』の特徴、価値などについて、「私見」と断りながらもなかなかに的確な解釈で、首肯させられました。

また、現代人の感覚だけで読むことの危うさ、と言ったお話も。氏は『源氏物語』のご研究もなさっており、その際の態度が『智恵子抄』解釈にも生かされているような気がしました。氏曰く「安易なフェミニズム/ジェンダー論で語るのは危険」、「智恵子を悲劇のヒロインと捉えるべきでない」とのことで。

つい先日も書きましたが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生も、「はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」と述べられ、「安易なフェミニズム/ジェンダー論」などに疑問を呈されています。

かつてテレビ等で引っ張りだこだった「フェミニズム/ジェンダー論」者の女性は、もう最初から『智恵子抄』には拒絶反応を示し、ろくに確かめもしないまま「家事労働に追われて智恵子は才能を発揮出来なかった」とか「『智恵子抄』は智恵子の才能を押し潰す男の論理」といった発言を現在も繰り返しているようですが、そういう見方は論外ですね。

続いて武蔵野美術大学の前田恭二教授。
PXL_20251123_061542604
PXL_20251123_065746833.MP
雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」と題されてのご発表でした。

雑司ヶ谷は現在の豊島区、文京区にまたがる一帯の地名で、明治末から大正初め、ここに集った美術家・文学者たちが一種のコミュニティーを形成していたというお話。同様のケースで「田端文士村」「池袋モンパルナス」などは有名ですが、雑司ヶ谷のそれはまだ注目度が低いものの、美術史・文学史上、いろいろと重要な出来事の背景に雑司ヶ谷での地縁が作用している、というわけで。なるほど、炯眼だなと思わせられました。

美術方面では斎藤与里、津田青楓、柳敬助、戸張孤雁、正宗得三郎、本間国雄、坂本繁二郎ら。文士としては上司小剣、正宗白鳥、三木露風、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒、人見東明、谷崎潤一郎、秋田雨雀、中村星湖など。光太郎と何らかの関わりのあった面々が大半です。

そして智恵子も。智恵子は明治44年(1911)のおそらく3月から、すぐ下の妹・セキと共に雑司ヶ谷719番地に住んでいました。近くに住んでいた津田青楓には、師事、とまではいかないものの、絵のアドバイスを受けたりもしています。智恵子の言葉として有名な「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの」は、その頃、青楓に語られたものです。ただ、青楓が『漱石と十弟子』中でその言葉を文字にしたのは昭和23年(1948)になってからなので、微妙なニュアンスの違いはあるかも知れませんが。

先程の面々、共通点としては、早稲田出身者が多いということが挙げられます。それから、『読売新聞』の関係者も。人見東明は読売新聞社に勤務していたそうですし。それから、智恵子も所属していた太平洋画会や、光太郎も出入りしていた中村屋サロンの関係も垣間見えます。

またまた智恵子ですが、智恵子にも早稲田や『読売新聞』の影がちらつきます。雑司ヶ谷在住時の明治45年(1912)4月には早稲田大学高等予科教室で開催された早稲田文学者主催の装飾美術展覧会に作品を出品しています(前年に智恵子と知り合った光太郎もですが)。それから、同じ年の6月には『読売新聞』に連載「新しい女」の第17回として、「最も新しい女画家」の題で智恵子が好意的に紹介されています。
無題
このあたり、雑司ヶ谷という地縁も無関係ではないだろうということです。連載「新しい女」は、第1回が与謝野晶子。その他、松井須磨子や三浦環、『青鞜』にも寄稿していた国木田独歩の妻・治子、中村屋の相馬黒光などが取り上げられましたが、この時点での知名度は智恵子は彼女たちほどではなく、確かにおかしいといえばおかしいところです。

そして雑司ヶ谷に集った美術家たちが、光太郎も参加したヒユウザン会(会場が読売新聞社)や、文展に反旗を翻した二科会にも繋がっていくというお話。「おお」という感じでした。

来月、明星研究会さんでの発表を仰せつかっており、明治末から大正前半頃の光太郎の立ち位置について光太郎を中心とした人物相関図なども作成し、お話しする予定なのですが、大いに参考になりました。

発表はこのように素晴らしいものでしたが、残念なことに参加者があまり多くありませんでした。まぁ、毎年のことといえばそうなのですが(今時、ホームページが存在しない団体ですので……)。ほぼ毎回欠かさず参加されている方の中には他の外せない会合があるやに聞きまして、どうもこの時期はこの手のイベントが重なるので致し方ないかなとも思います。当方も来週は「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で発表がありますし、どちらかが1週ずれていたらアウトでした。それでも、当方の投稿を読まれて初めてご参加下さった京都大学の学生さんなどもいらっしゃり、良かったと思いましたが。

高村光太郎研究会、こんな感じで年に一度の研究発表会をおこなっていますし、年会費3,000円で入会されると会誌『高村光太郎研究』(4月発行で、主に前年に研究発表をなさった方がそれを元にご執筆。それプラス当方の連載「光太郎遺珠」「高村光太郎没後年譜」など)が送られてきます。

ぜひご入会下さい。

【折々のことば・光太郎】

一体大家達があとからあとからいろんな違つた技巧を採用するといふ事が確かでせうか。どうも怪しい。私はさう思ひません。


光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

「不易と流行」ということを考えさせられます。