都内からイベント情報です。東京青森県人会さんの主催で、当方もパネリストの一人として登壇させていただきます。

十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~

期 日 : 2025年11月30日(日)
会 場 : 港区赤坂区民センター 港区赤坂4丁目18-13
時 間 : 展示/13:00〜16:30 トークイベント/14:15〜16:30
料 金 : 無料(事前申込制) 参加登録フォームはこちら

 明治・大正期に活躍した文人・大町桂月(1869〜1925)の没後100年を記念し、十和田湖・奥入瀬渓流の自然と文化の価値を再発見しながら、国立公園としての未来を展望するトークイベントです。
 桂月が全国を旅して自然の美を詠んだ足跡や、彼の影響で全国に広まった保勝運動、そして高村光太郎による**「乙女の像」**制作の背景などを紹介。
 また、日本とアメリカの国立公園制度を比較しながら、自然と文化の融合的価値を見つめ直します。会場では、桂月ゆかりの掛け軸や資料の展示も行われ、彼の文学と思想に触れられる貴重な機会です。

パネリスト(予定)
 谷川妙子(大町桂月を語る会)
 小坂竜(建築デザイナー)
 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表) ほか
 
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大町桂月は明治の文豪。十和田湖や周辺の景観を愛し、明治末にそれまで全国区では知られていなかったその美しさををさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心、彼等の活動が実り、昭和11年(1936)には十和田湖周辺が国立公園に指定されました。
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下って戦後の昭和26年(1951)、当時の青森県知事・津島文治(太宰治実兄)が中心となり、国立公園指定15周年を期に、桂月等を「十和田の三恩人」として顕彰するモニュメントの建設を計画。しかしそういう前例のほとんど無かった時代で、どんな物を作るべきか、誰に頼めばいいのかなど、さっぱりわからずに頭を抱えていたところ、たまたま十和田の三本木高校の校歌を作詞した佐藤春夫が来県。津島知事から相談を受けた佐藤は「そういうことなら日本で一番の造型作家は高村光太郎先生だから」と、光太郎を推薦しました。
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光太郎は当時、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していましたが、佐藤からの「あなた以外の作品が十和田湖に建っては日本の恥だ」的な内容の懇切丁寧な書簡を読み、また、自身でも死期がそう遠くないことを自覚しており、そろそろ生涯最後の大作にかからねば、と考えていた時期だったこともあり、いろいろ逡巡したものの、結局、制作を引き受けました。その結果、「乙女の像」が誕生したわけです。ざっくりですが。
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太田村での山小屋では巨大彫刻の制作は不可能なので、光太郎は昭和27年(1952)、7年半ぶりに上京。貸しアトリエとして運用されていた中野区の中西利雄アトリエに入り、助手として野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二を雇い、像の芯に針金を巻き付けたり、粘土をこねたりなどの力仕事を手伝ってもらいました。
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今回のイベントでは、小坂の子息・建築デザイナーとして活躍されている竜氏もご登壇なさるそうです。

メインは没後100年となった桂月。桂月といえば、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。時を経て光太郎がその桂月顕彰に携わったというのも面白いところです。

当日はざっくりとそんな話をさせていただこうと思っております。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いのちあるものに醜はない。人間の感情を暗示するもの、悲愁にしても苦痛にしても、温良にしても忿怒にしても、憎悪にしても、恋愛にしても、其は皆それぞれの美の刻印を持つてゐる。それ故、私は一切の存在は美であり、一切の美は真であるとする――人は真なるものの中から選択する権利を持つてゐる。

光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 クラリ筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

ロダンはつくづく「人間」が好きだったんだなぁと思わせられます。