栃木県から企画展情報です。

『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武

期 日 : 2025年10月11日(土)~2026年3月22日(日)
会 場 : 栃木市立文学館 栃木県栃木市入舟町7-31
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、火曜日休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土曜・日曜・祝日の場合は開館)
      年末年始(12月29日〜1月3日)
料 金 : 一般 330円(260円) 中学生以下 無料
      ※( )内は、20名以上の団体割引料金

 現代詩の雑誌『歴程』は、昭和10年(1935)5月に本市ゆかりの詩人である逸見猶吉(へんみゆうきち 1907~1946)が初代編輯兼発行人となり、草野心平、中原中也ら8名によって創刊されました。現代詩を代表する詩人たちが集ったこの雑誌は、戦時中の中断を経て戦後に復刊、現在に続いています。
 本展では、昭和27年(1952)に同誌の同人となった本市出身の詩人・岡安恒武(おかやすつねたけ 1915~2000)とともに、二人の生涯と作品を収蔵品を中心に紹介します。

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関連行事
 1 文学散歩「逸見猶吉ゆかりの地めぐり」
  案内:渡瀬遊水池ガイドクラブ  日時:2026年2月14日(土) 13:30~15:30
  場所:渡瀬遊水池内(谷中村史跡保存ゾーンなど)  参加費:無料

 2 ワークショップ「ミニヨシ灯りづくり」
  講師:渡瀬ヨシ愛好会     日時:2025年12月7日(日) 10:30~12:00
  場所:文学館1階とちぎサロン   参加費:400円

 3 学芸員によるギャラリートーク
  日時:2025年10月25日(土)、12月14日(日)、2026年3月7日(土) 13:30~14:00
  参加費:無料


光太郎もたびたび寄稿したり、その絵が表紙などを飾ったりした詩誌『歴程』。てっきり最初の編輯兼発行人は当会の祖・草野心平だと思い込んでおり、逸見猶吉だったというのは存じませんでした。

ちなみに『歴程』への光太郎寄稿、その最後のものは「逸見猶吉の死」という文章でした。昭和23年(1948)のことでした。

 逸見猶吉の満州客死にはまつたくやりきれない感をうけた。その報をきく前に、何となく逸見猶吉があぶないといふ気がかりは強くしてゐたが、それは彼の烈しい気象を考へて満州の当時の事情と思ひ合せ、万一むちやな闘争でもやりはしないかと思つたからであつた。聞くところによると、さすがに大人のやうになつた彼は、終戦後おだやかに身を処して過激な行動などもなく、食品か何かを売つたりして生活してゐたさうであるが、あの「ウルトラマリン」を書いた此の詩人のさういふ姿を想像するのさへ痛々しい。かういふ苦労と無理と多分甚だしい栄養不足等から結核が急に悪化したに違ひなく、かつては強靱そのもののやうだつた彼もつひに満州に於ける日本瓦解と共に仆れた。
 逸見猶吉の詩の魅力はその稀有な高層気圏的気稟にある。その詩に於ける思想も生活も言葉もすべて此の稀元素のやうな気稟の噴煙を吐かしめる因数的存在としてのみ意味がある。彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充実して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところに出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示す彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き声をきかない。彼のやうな詩人は多作であり得るわけがないから、恐らく遺した詩は極めて少いであらう。ウラニウムのやうに少くて、又そのやうに強力な放射能を持つてゐるのだ。今座右に一篇の詩もない。しかし曽てよんだ彼の詩のひびきはりんりんと耳朶をうつてやまない。思想も生活も言葉も此の無形の実在に圧倒され、慴伏せられて遂に思ひ出せない。その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。


哀惜の念を滲ませつつ、実に的確な評をも与えています。

個人的にも、昭和4年(1929)には、光太郎と逸見、心平、それから高田博厚、岩瀬正雄、岡本潤、横地正次郎の総勢7名で群馬の赤城山に登り、泊まった宿で夜中に酒が無くなると、赤城神社に奉納されていた御神酒を拝借、などということをやっていたりした間柄でした。

もう一人、今回の企画展で取り上げられる岡安恒武。従来、光太郎との直接の交流は確認出来ていませんでしたが、つい最近、光太郎から岡安宛の書簡を発見したばかりなので、驚きました。

昭和21年(1946)に岡安が編集にあたり(発行人は岡安の兄・岡安大仁)、栃木で発行されていた雑誌(というより冊子)『地人』第3号に、「高村光太郎先生ヨリ」の題で全文が引用されています。
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「地人」毎号忝く、御礼申上げます。宮沢賢治精神に基く地人塾の存在は心強く、どこまでもやり通していただく事を切望いたします。ここでも佐藤勝治さんが「ポラーノの広場」をつよい信念を以てはじめられました。小生此地に来て親しく宮沢賢治さんの委細を見聞するに従ひ、ますますその人の大と深とが身にしみて感じられます。

『地人』は宮沢賢治の「羅須地人協会」から名を採り、賢治精神に基づいて賢治作品や評論等を掲載したもので、花巻で発行されていた同様の『ポラーノの広場』を引き合いに出しています。こちらの編集は光太郎に花巻郊外太田村移住を勧めた分教場教師・佐藤勝治で、光太郎も度々寄稿していました。

光太郎の遺した郵便物等の授受の記録「通信事項」昭和21年(1946)2月20日の受信記録には「「地人」二号 」、2月22日の発信記録には「岡安恒武氏へハカキ」の記述があり、この書簡を指していると考えて間違いなさそうです。

この『地人』、昭和24年(1949)まで発行が確認出来ています。逸見も光太郎や心平同様、賢治には並々ならぬ関心を寄せており、改めて賢治の影響力に感嘆します。
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こちらは昭和9年(1934)の「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。逸見と心平が写っています。当然ここにいるべき光太郎の姿がありませんが、智恵子の心の病が昂進し、さらに父・光雲が危篤状態に近い頃でしたので、無理だったのでしょう。岡安はまだ二十歳そこそこで、こうした席にはまだ参加していない感じです。もしかすると、最後列の学生服二人のうちのどちらかが岡安だったりするかも知れませんが……。

その二人を取り上げた企画展ということでこれは行かざあなるまい、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

もちろん凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が「見」ないで眺めるからです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「見る」と「眺める」、英語の「watch」と「see」のような感じでしょうか。