当会で会報的に発行している『光太郎資料』。第64集が完成しまして、関係の団体や個人の方々へ順次発送しております。元々は当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、筑摩書房版第一次『高村光太郎全集』完結後、その補遺などを最初の目的として昭和35年(1960)に刊行を始めたものです。以後、平成5年(1993)の第36集まで不定期に発行が続き、全集の補遺や、その他、光太郎智恵子光雲に関する様々な「資料」が収められました。
平成24年(2012)に当会としてその名跡をお譲りいただき、4月の連翹忌と10月のレモンの日に合わせて、年2回の発行としています。
今号の内容は以下の通り。
「光太郎遺珠」から 第二十八回 岩手にて その二
増補版『高村光太郎全集』(平成10年=1998に完結)後に見つかった光太郎文筆を集成しています。昭和20年(1945)から7年半暮らした花巻町と郊外旧太田村で書かれたもののうち、今号では昭和20年(1945)と翌年前半の、主に書簡です。
光太郎回想・訪問記 『宮沢賢治批判』まえがきより 佐藤勝治/出会いの重みについて 四竈経夫(しかまつねお)
前者は『山荘の高村光太郎』(昭和31年=1956 現代社)を書いた、元太田小学校山口分教場の教師・佐藤勝治によるもの。同書と重なる部分もありますが、多少のニュアンスの違いもあったので採りました。光太郎の旧太田村移住の経緯等が記されています。
後者は『海のように深く 現代の忘れもの』(平成5年=1993 宝文館出版)より。四竈は学徒出陣後、戦後は東京女学館中学高校長を務めた人物であった他、八木重吉に関する著書もあります。光太郎日記の昭和20年(1945)9月10日の項に「午後佐藤院長さん宅へ清六さんの知人四カマ氏といふ航空気象の軍人来訪、詩の話などす。余の詩を読んでゐる人。水沢へ来たついでとの事。」の記述があります。この日は8月10日の花巻空襲で宮沢賢治の実家を焼け出された後、身を寄せていた旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅から、花巻病院長・佐藤隆房邸へ移った当日でした。これまで「四カマ氏」については不分明でしたが、四竈自身の回想を発見したことで、詳細が明らかにできました。
光雲談話筆記集成 善光寺仁王尊の製作 米原雲海/高村光雲
大正8年(1919)、光雲とその高弟の米原を中心に制作された信州善光寺さんの仁王像他について。制作過程や細部の意図、参考にした他寺院の仁王像について等が語られています。昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 安房館山周辺(千葉県)
大正10年(1921)に与謝野夫妻、深尾須磨子ら新詩社の一行10名程で、さらに同14年(1925)には光太郎智恵子二人で訪れた安房館山を紹介しました。音楽・レコードに見る光太郎 「家の光つどいの歌」
昭和30年(1955)にリリースされた、光太郎詩「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)朗読(朗読者は不明)が吹き込まれたSPレコードに関してです。2種類の盤が確認出来ています。
第六十九回連翹忌報告
4月2日(水)に日比谷松本楼さんで執り行った、第69回連翹忌の集いについてです。
高村光太郎初出索引
現在把握できている光太郎文筆作品を、初出掲載誌題名によりソート・抽出し、初出掲載年順に表にしています。今号では昭和11年(1936)から翌年に初出のあったものを掲載しました。智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院していた時期です。
ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139 加入者名 小山 弘明
今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。
【折々のことば・光太郎】
良い彫刻家が人間の胴体を作る時、彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。其は筋肉を活動させる生命です。……生命よりも以上のもの、……力です。
光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃
光太郎訳の『ロダンの言葉』は、日本の若き芸術家たちにバイブルの如き扱いを受けました。やはりこういう一節などが沁みたのでしょう。






