NHKさんで初回放映が平成7年(1995)に為されたドキュメンタリー番組「老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」が、先週、「時をかけるテレビ 今こそ見たい! この1本」の中で再放送されました。ともに光太郎と交流があり、そのDNAを色濃く受け継いだ、佐藤忠良舟越保武が出演していました。事前のネット上の番組案内に光太郎の名が出ていなかったので、気づきませんでしたが、見逃し配信サービス「NHKプラス」で拝見しました。
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「時をかける……」としては、ナビゲーターが池上彰さん、ゲストコメンテーターが武田鉄矢さん。
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「老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」。平成7年(1995)の制作ということで、佐藤・舟越ともに存命でした。
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二人とも1912年に出生。ただし、改元の関係で、佐藤は明治45年、舟越は大正元年の生まれです。結婚前の光太郎と智恵子が日比谷松本楼で氷菓を食し、千葉銚子犬吠埼に絵を描きに行った光太郎を追って智恵子も来銚、愛を確かめ合った年です。ついでに言うなら、佐藤は宮城県黒川郡大和町、舟越は岩手県二戸郡一戸町、同じみちのくの生まれです。

そして共に昭和9年(1934)に東京美術学校彫刻科に入学、卒業後には新制作派協会彫刻部創立に参加。光太郎は同会の活動には好意的で、機関誌『新制作派』に寄稿もしています。
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さらに戦後には、佐藤が「群馬の人」で昭和35年(1960)、舟越は「長崎26殉教者記念像」で昭和37年(1962)に高村光太郎賞を受賞しました。
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光太郎を巡る二人の共通点は、まだあります。それぞれのお嬢さん。佐藤の息女・オリエさんは昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。忠良はその際のオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という作品も残しています。舟越の息女・千枝子さんは光太郎に名前を付けてもらい、光太郎に会ってもいます。

二人はお互い、良き友、そしてライバルとして切磋琢磨しながら、日本の具象彫刻を牽引していきます。
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番組制作は平成7年(1995)でしたが、それに先立つ昭和62年(1987)、舟越が脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になります。それでも舟越は不屈の精神で彫刻制作を続けました。

硬い石や木を削るカーヴィング、粘土を積み上げるモデリングはもはや不可能。ではどうするかというと、粘土の塊から左手一本でヘラを使って搔き落とすカーヴィングでの制作でした。
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作られているのはキリスト像。体力的に、長時間の作業は不可能。休み休み、しかし他者の手はほとんど借りずの作業です。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作時の光太郎もかくや、という気がしました。

一方の佐藤も、舟越に比べればまだ自由に歩き回ったりはできるものの、やはり83歳。若い時には考えられなかったような痛恨のミス。ちょうど取材中に制作していた作品が、夜のうちに回転台のサスペンダーから外れ、倒壊してしまうという不運に見舞われます。
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しかしその部分を番組でカットさせなかった佐藤、素晴らしいと思いました。

かくして平成7年(1995)に新制作派展に並んだ二人の作品(佐藤は立像の出品は断念)。
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改めて、その時点でのお互いへの思い。
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共通の同級生だった昆野恒の展覧会での一コマ。
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不覚にもうるっと来てしまいました。

佐藤にとっての舟越、舟越にとっての佐藤のような存在が、光太郎には居ませんでした。そうなるはずだった碌山荻原守衛は数え32歳で急逝。高田博厚とは14歳も差がありましたし、高田は昭和6年(1931)に渡仏、以後、光太郎が没するまで帰国しませんでした。その他の同世代の彫刻家は、光太郎の嫌ったアカデミズム系に行ってしまいました。妻・智恵子は厳しい言い方ですが、光太郎にとって「ライバル」となる技倆も、そして覚悟も足りなかったようです。

閑話休題、「時をかけるテレビ 今こそ見たい! この1本 老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」、NHKプラスでは9月19日(金)まで視聴可能。その他、U-NEXTなどでも配信があるようです。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

人間の体は歩く殿堂です。又、殿堂の様に、中心点を持つてゐます。其をめぐつていろいろの量が位置を占め又ひろがります。全く動く建築です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

佐藤も舟越も、この文章の収められた訳書『ロダンの言葉』で彫刻家としての眼を開かせられました。