光太郎が大正2年(1913)に智恵子と一夏を過ごした信州上高地。当時の登山道「クラシックルート」上にあり、光太郎智恵子も立ち寄り、詩集『智恵子抄』にも記述がある岩魚留(いわなどめ)小屋について、光太郎智恵子にからめ、『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんが相次いで記事にして下さいました。

先に『毎日新聞』さん。8月21日(木)、栃木版への掲載でした。メインで取り上げられているのは、昭和50年(1975)にあった不幸な出来事。こういうことがあったというのは存じませんでした。

山は博物館 島々谷で山小屋主人が水死 救助行為に災害給付金出ず

 長野県安曇村(現松本市)にある「島々(しましま)谷」の「南沢」で1975年夏、奥原信俊さん(当時50歳)が流され水死した。自分の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の前で、増水した激流を無理に渡ろうとする男性登山者(同27歳)を見過ごせず、手助けしていた時だった。男性は「助けを求めていない」と責任を回避。県警は助けが要るほど危険は迫っていなかったと、遺族への災害給付金不支給を決定。理不尽だとの世論が高まった。
 不幸は北アルプスの上高地に至る道(約20キロ)で起きた。起点の島々集落から沢沿いに徒歩4時間かかる山小屋は、中間を少し過ぎた所にある。悲運の7月13日は大雨が降りやすい梅雨末期で、県によると上高地ではそれまで11日間で458ミリを記録。前日は期間中最大の182ミリも降った。当日も停滞前線のため雨量が増える予報が出ており、実際に午前中は雨が強かった。
  報道などによると、兵庫県明石市の男性は、槍ケ岳を目指していた。朝、登山口で警察官と区長に入山を止められたが強行。午後1時ごろ、右岸から山小屋がある左岸に渡る場所で立ち往生した。橋があるはずが、流失か水没して消えていた。
  奥原さんは、対岸で右往左往して渡れる場所を探す姿を見て、身ぶりで引き返すように促した。聞き入れないので、無事に渡らせるためロープを投げ、端を木に結ぶように指示。反対の端を持っていて流された。7人ほどいた山小屋の客から、警察に通報するよう言われた男性は戻り、途中でキャンプしていた大学山岳部員を介して駐在所に届け出た。
 大阪府寝屋川市でレストランの支配人をしていた次男の英考(ひでたか)さん(71)は、その日に知らせを受け、実家がある島々集落へ向かった。「おやじなら生きているのではないか」と信じていたが、翌日着き、1日たっても増水が収まらない沢を前に「駄目かも」とも思った。この日、捜索隊が山小屋から1・4キロ下流で遺体を発見。衣服がはがれ、体半分が埋まっていたが、英考さんが現場で対面した時は体が清められていた。
 「警察官の職務に協力援助した者の災害給付法」では、水難や山岳遭難で、警察官がその場にいれば当然する救助を義務がない人が行い、けがや死亡した場合、本人や遺族に給付金が出る。この75年、全国で死亡10人、傷病4人の適用例がある。ただ、相手に危険を避ける時間の余裕があれば該当しないとされる。県警は危険度合いや、男性が「渡れなければ引き返す気だった」と主張したことを踏まえ、早々に適用は無理と結論付けた。 地元紙によると、普段救助に当たる山小屋経営者らは「登山者が救助を求めなければ、危険な状態でも手出しする必要がないということか」と態度を硬化。残った休暇で「葬儀に顔を見せず、(穂高連峰へ)出かけた若者に非難が集中」と一般雑誌も取り上げた。当日の岩魚留小屋の客は全国紙に「逆に登山者が流されていたら、小屋の主人は強い非難を受けた」と投書した。
 県議会12月定例会の一般質問で、県警警務部長は、線路上の子供に「汽車がばく進」する状況を適用例に挙げ、「登山者の位置は安全な所、雨も小降り。危険が急迫し、命が危ない状況は認められなかった」と答弁。「お気の毒」と言いつつも「法を適用できないかという方向で検討したが給付は困難」と述べた。質問した県議は、救助隊員の士気低下を心配し再考を要請。警務部長は県内で過去28件の給付を明かし「本当に困難」と答えた。
 別の議員は「濁流を渡るべくしている登山者は、遭難一歩手前と判断し、手を差し伸べたことは当然」と、登山案内人の言葉を紹介。「本能や正義感のもと行動する前に(法が規定する)人命救助か検討し行動に移ることが要請された」と皮肉った。奥原さんの弟は「山男としてやるべきことをやった。だれを恨むものではないが、善意が踏みにじられたことは残念」と話していたという。
 妻ら遺族は12月、県と県警に、法適用が無理ならそれに準ずる措置を要請。知事は「何らかの方法で感謝を表したい」と述べた。
 男性への損害賠償請求訴訟や県警への行政不服審査など、遺族が法的対応を弁護士に依頼する中、男性とは「見舞金」300万円を受けることで合意した。それでも登山雑誌には「あやふやな行動が山小屋の主人を死なせた。登山者は『危険な状態ではなかった』といいはった。ならばなぜその意志を表さなかったのか」と投書が載った。「余計なおせっかいをして死んだといわれ」、妻は精神的に疲労しているとの記事もある。
 県警も76年3月末、「見舞金」300万円を支給。知事は県山岳遭難防止対策協会の会長名で感謝状も出した。「永年にわたり登山案内人として円満な人柄により親しまれ、遭難防止に尽力されました。功労をたたえ感謝の意を表します」とある。日付は8カ月前の遭難日だが、直接触れていない。妻は謝意を示したが、法が適用されず「満足していない。しかし、関係者の声援を受けここまでこぎつけたのはうれしい。主人は間違っていなかった」と語った。法的訴えは取りやめた。
 対応を母と兄に任せた英考さんは父の初七日から山小屋に入った。男性や県警に対し「夏山の時期で、空けておけないとの思いでいっぱい。どうこう考える余裕はなかった」と振り返る。今も「何を言ってもおやじは戻らない。相手の顔も見ていないし、恨む気持ちもない。葬式に出なかったからって、自分もその立場なら隠れていたい」と話す。体調不良などの事情で、山小屋は10年以上前から閉じている。

「山上の恋」の光太郎も往復
 大正以前、長野県松本市から旧安曇村の上高地に行く車道は無く、登山者は島々谷を歩いた。1913年8月から2カ月暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎も往復した。
  滞在中、交際していた長沼智恵子が来ると知らせを受け、岩魚留小屋がある所へ迎えに行った。歌人の窪田空穂は「登って来る女性に目を見張った。若く美しい人で、呼吸静かに歩み寄って来る。視線は高村君に一直線に注がれていた」。 この様子を9月5日付東京日日新聞(現毎日新聞)は「美しい山上の戀(こい)」と冷やかした。「美人が登ってくる。今度は青年が下りてくる。視線が合ふと手を引き乍(なが)ら上つていつた。二人が相愛の仲は久しいもので『別居結婚』してゐる仲ぢやもの、智恵子が光太郎を訪ふたと知れた――と岡焼から便りがあつた」
 ちまたで興味本位のうわさ話になる一方、光太郎は智恵子を連れて穂高連峰や明神岳、焼岳、霞沢岳など周囲の山々を写生し、別世界の風光を堪能。2人はここで婚約した。
 島々谷の南を遠回りする梓川の各所に水力発電所を建てるため、今の国道158号と県道が通じ、上高地に車が入ったのは昭和初期だった。
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この事故で亡くなった奥原氏の子息が小屋を引き継いだものの、もうご高齢で体調不良、平成24年(2012)から休業中だそうです。それを引き継ごう、というお話で、『朝日新聞』さんの長野版、8月11日(月)の掲載でした。

(山岳ジャーナリスト近藤幸夫の新・山へ行こう)上高地へのルート /長野県■山小屋復活から未来つなぐ

 北アルプスの玄関口・上高地は、日本の近代登山発祥の地とされています。昭和初期に釜トンネルが開通して自動車で行けるようになるまでは、松本市の島々から徳本(とくごう)峠(2135メートル)を越える約20キロの山道が上高地へのメインルートでした。江戸時代以前から利用されてきたクラシックルートの復活と再生を目指すプロジェクトが現在、進行しています。
 プロジェクト代表を務めるのは昨春、島々に移住した塩湯涼(しおゆりょう)さん(30)。島々から沢沿いの登山道で、徳本峠の手前にある岩魚留(いわなどめ)小屋の営業再開などに取り組んでいます。
 松本市文化財課などによると、岩魚留小屋は1911(明治44)年、農商務省の官舎を転用し、民間会社が設立しました。木造平屋建てで約70平方メートル。現在のオーナー奥原英孝さん(71)が大けがをし、2012年から休業しています。
 クラシックルートは明治以降、著名な登山家や文化人らが通った道です。「日本近代登山の父」と称される英国人宣教師ウォルター・ウェストンや詩人高村光太郎、文豪芥川龍之介らが有名です。
 京都市出身の塩湯さんは、長崎大薬学部、同大大学院を卒業後、福岡市の製薬会社に就職しました。社会人になってから友人と登山を始め、大型連休中に北アルプスの槍ヶ岳の登った際、信州の山々に魅せられました。
 「製薬会社の仕事に不満はなかったけど、それ以上に山に関わる仕事をしたくなった」。入社1年半で退職。南アルプスの山小屋で働いたり、山仕事の会社で森林調査などを手伝ったりしました。
 こうした経験を重ね、山の関係者が集まれる場所を作りたいと考えました。SNSを通じて、島々で古い蔵を改修したカフェを営む山口浩喜(ひろき)さん(57)と知り合いになり、転機を迎えました。
 昨春、山口さんから島々の空き家を紹介され、山で働く人向けのシェアハウス「山小屋の小屋・下駄(げた)屋」を開設。自身も入居し、島々に移住しました。
 島々は、ウェストンの登山ガイドを務めた上條嘉門次の自宅があったほか、今も上高地周辺の山小屋経営者らが住んでいます。日本の近代登山の発展を見守ってきた集落なのです。
 山口さんも移住者です。島々の魅力をアピールし、クラシックルートの整備に尽力しています。奥原さんから岩魚留小屋の後継者探しを頼まれていました。「塩湯君は若いし、人柄もいい。山小屋勤務の経験もあり、みんなで支援すれば岩魚留小屋の復活は可能」
昨年11月、「岩魚留小屋再生プロジェクト」が発足しました。代表は塩湯さん、山口さんが統括に就任し、有志6人で組織を立ち上げました。
 今年9月に老朽化した岩魚留小屋の状況を調べ、改修費用の見積もりをします。クラウドファンディングで資金を募り、来年に改修工事をして27年の営業再開を目指しています。
 プロジェクトは、岩魚留小屋の営業再開だけではありません。クラシックルートは、森林鉄道の軌道跡や炭焼き窯、風穴を利用した建物跡などが残る歴史を伝える道なのです。こうした山岳遺産をめぐるツアーの実施も計画しています。
 塩湯さんは「岩魚留小屋の再生は過去と現在、そして未来をつなぐ試みです。歴史を守るだけでなく、新たな価値を創りたい」と話しています。

同様の件は『毎日新聞』さん長野版でも今年4月に報じられていました。

計画通り営業再開となりましたら、ぜひ一度行ってみようと思っております。みなさまもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

しかし、理論家よ。昔の単純な友はそんなに仰山な事をしなかつた。そして直ちに、彼自身の内に、自然の内に、君達が図書館の中で探し廻ってゐる真理を見つけた!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自然を師とせよ」というのがロダンの根本です。それを光太郎も受け継いでいきました。