昨日に続き、光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を。今月15日発行の『広報はなまき』。同誌は基本的に1日と15日、月2回の発行で、15日の発行分に為されている連載「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」で、花巻高村光太郎記念館さんで開催されている特別展中原綾子への手紙」関連で、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた葉書が取り上げられています。ちなみに同欄の昨年9月15日号掲載分には綾子主宰の雑誌『スバル』に寄稿したエッセイ「みちのく便り」の草稿が紹介されました。
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発信の日付は昭和26年(1951)7月1日。文面は以下の通りです。
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 今日阿部三夫さんからのハガキに
 よりますと七月に御来訪の
 おつもりといふ事ですが、山ももう
 夏の季節となり、相当に暑い日も
 ありますので、二ツ堰からの御徒歩は
 無理かと存ぜられますし、二ツ堰のあの
 運送屋さんは今病気をしてゐて、
 お供もできない次第、 時候のよい時
 までおのばしになつた方がよくは
 ないかと考へられますので此事一寸
 申上げます。 小生打身の方は全治、
 神経痛は少〻残つてゐますが減退しました。

当時、綾子は雑誌『スバル』(第3次)を主宰しており、「阿部三夫」はその編集等に当たっていた人物のようです。原稿の受け渡しなどの用事もあったのか、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を何度か訪れてもいます。

この葉書の翌月の8月21日にも。その日の光太郎日記には「阿部三夫氏と友人一人来訪、ビール4本つまみものをもらふ、詩や歌の朗読をきく、三時辞去。」とあります。

また、前年9月に綾子に送った葉書にも、阿部の来訪の様子が。003

 今朝スバルの阿部三夫さんが友達
 と一緒に来訪、 お名刺の紹介と
 委托のビール五本とを拝受しまし
 た。早速三人でビール三本をいただ
 き、時ならぬ山の会飲をいたし
 ました。阿部氏は自作詩朗読、
 尚浜離宮での写真も拝見し
 ました、ここでお弁当をつかひ、
 正午少し過ぎに辞去されました、
 スバル表紙の事について阿部氏に
 御伝言をたのみましたから、いづれ
 お話あることと存じます。

残念ながら昭和24年(1949)、25年(1950)の光太郎日記は大半が失われており、この時の様子は日記で確認できません。

26年7月1日の葉書では、綾子自身も光太郎の山小屋を訪問したいという旨を阿部から伝えられたと書かれ、しかし今は暑い最中(さなか)、もう少し涼しくなってから、的な返答をしました。

それを受けて綾子の訪問は9月14日・15日に為されました。この件についての光太郎日記。

 午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊る事になり、夕方まで談話。いろんな食品をもらふ。開拓の方を案内し、夕方田頭さんにゆかれる(9月14日)

 十二時頃中原さんくる、午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。四時迎ひの自動車来る。中原さん辞去。台温泉泊りの由。(略)中原さん持参の食パン美味、中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。(9月15日)


「一年の間に大層年よりじみ」とある通り、前年11月にも山小屋を訪問していました。「田頭さん」は屋号で、元太田村長の高橋雅郎宅、「台温泉」は大田村同様、のちに花巻市に編入された湯本村の鄙びた温泉地です。光太郎も何度か宿泊に訪れています。

2回の訪問それぞれの折に、歌人だった綾子は短歌を詠んでいます。

2度目の訪問時のもの。

  奥州街道を行く

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 すこやかに師おはしまし自在鉤につもれる煤の厚くなり居り

 しぐれかとたちいでて見ればひと叢(むら)のやつかの梢(うれ)を渡る風なり

 みちのくの清水(きよみず)の野に人と見し一世一代の仲秋の月

 さしわたし二(に)千里(せんり)と見る暈(かさ)を着て月の占めたる空ひろし広し

  台温泉にて

 ないしよごとするがやうにも一人来て山の温泉(いでゆ)におくる夜昼

 花巻を過ぎてまた入る山の道太田村とは方角遠(ちが)ふ

 そつとしておきたき心にかかはり無し田舎芸者は広間で騒ぐ

 東京へ帰りたくなきしたごころ相手のあらば心中もせむ

最初の訪問時、さらに昭和31年(1956)4月2日の光太郎逝去時のものなどと併せ、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に収められました。

今回『広報はなまき』で紹介された葉書、綾子歌集『閻浮提』、そして光太郎日記で「新小屋にて色紙五枚揮毫」とあるうちの一枚(「観自在こそ……」)、特別展「中原綾子への手紙」で花巻高村光太郎記念館さんにて展示中です。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧下さい。
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【折々のことば・光太郎】

単純は完全である。貧寒は無能である。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ごてごてとした余計なものをそぎ落とした理想的な「単純」と、「単純」を目指しつつしかし実は中身の乏しい「貧寒」とは似て非なり、ということでしょう。