今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
012
だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。