保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。
協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。
協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。
会報52号を発行しました!
今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川
となっております。
サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。
奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。
現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。
これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。
そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。
移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。
保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう
余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。
施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。
奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。
現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。
これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。
そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。
移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。
保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう
昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳
余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。


