長野県の松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん、先週の記事から。

荻原碌山のブロンズ像「坑夫」 生徒が初の洗浄作業

 安曇野市穂高東中学校の生徒と隣接の碌山美術館の職員が23日、同校に設置されている、穂高出身の彫刻家、荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の代表作「坑夫」のブロンズ像を磨く作業をした。偉人の功績に思いをはせながら、長年風雨にさらされ付着した汚れを取り除いた。
 前身の穂高中学校が昭和29(1954)年に開校した際、旧南安曇教育会のはからいと遺族の理解で正面玄関の前庭に設けられて以降、親しまれてきた同校のシンボルだ。美術部員4人が、洗浄剤とブラシで汚れを落とし、蜜ろうワックスを塗布して布で磨き上げると、酸性雨による雨だれ模様が一掃され、輝きを取り戻した。
 「坑夫」は碌山が巨匠ロダンに師事し、パリの美術学校で学んでいた1907年の制作。イタリア人男性がモデルの力強い作風で、日本近代彫刻の礎を築いた傑作と称される。2年生の小林要太さんは「作業に関わり、碌山は地元の宝だとあらためて感じた」と話した。3年生の山田朱里部長は、総合的な学習の時間で碌山を学んだり、清掃の時間に同館の掃除を行ったりしてきた同館との交流を振り返り「素晴らしい芸術が日常にある恵まれた環境」と感謝した。
 碌山の十三回忌に合わせ遺族が前身校に寄贈した「小児の首」をシンボルとする穂高南小や、同館が開校記念として「坑夫」を贈った穂高西中から、メンテナンスの相談が寄せられていたことを受け、碌山ゆかりの作品を屋外に設置する穂高西小や穂高北小へも同館職員が出向き、作業を済ませた。
 いずれも初めての取り組みで、碌山美術館の武井敏学芸員は「先人や関係者たちの思いが宿るもの。芸術的価値を伝える作品性が保たれれば」と話している。
002
記事では光太郎に触れられていませんが、守衛の「坑夫」(明治40年=1907)はパリ留学中の習作で、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリの守衛の元を訪れ、これを見せられて感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯もあって、昭和29年(1954)に当時の穂高中学校さんにこの像が設置された際、題字を光太郎が揮毫しました。上の画像に題字のパネルも写っています。
005
酸性雨による金属劣化の問題はかなり前から指摘されています。主に工業地帯をかかえる大都市圏での話ですが、自然豊かな安曇野あたりでも無関係ではないのですね。

同館のX(旧ツイッター)投稿に、メンテナンスのビフォー(左)/アフター(右)それぞれの画像が出ています。
003 004
全体に緑青に覆われていたような感じでしたが、ブロンズ本来の色合いに戻ったように見えますね。ワックスのおかげでしょうか、かなり光沢も出ているような。生徒さんたち、グッジョブです。

当方、SNSで神戸の「彫刻みがき隊あのね会」の方々と繋がっています。主に野外彫刻のメンテをボランティアで行われている方々で、「どこどこの彫刻をきれいにしました」的な投稿を見るたび、頭の下がる思いでいます。


自治体などの中には、こうした野外彫刻や石碑など、建てて建てっぱなし、あとは知ったこっちゃない、というスタンスが見られるところが珍しくありませんが、一方でこうした皆さんもいらっしゃるというのは素晴らしいことだと思います。そして今回の穂高東中さんの取り組みも。

また、一昨年には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、除幕70周年を記念して、地元の皆さんを中心に、雨の中で大規模な清掃が行われました。

こうした活動がもっともっと広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

又拓本をお預かりいたし忝く存じます、

昭和30年(1955)11月28日 硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

硲真次郎は詩や美術評論なども書いていた人物。光太郎とは戦前からの付き合いでした。「拓本」が何の拓本なのか、同時期の日記等を見ても詳細は書かれていません。もしかすると、上記の光太郎が揮毫した「坑夫」題字プレートの拓本か、とも思ったのですが、硲と安曇野との関係が確認できません。
006
これよりも、晩年の光太郎が好んだ中国の書家の碑から採った拓本と考えた方がつじつまが合うような気もします。