毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
001
短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
005
ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
002
揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
003
斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
006
「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。