決して忘れていたわけではないのですが、紹介すべき事項の山積に伴い後回しにして来た結果、発行から一ヶ月以上経ってしまいしました。年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の最新号です。
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いつもぼやいていますが(笑)、同人にしてくれと頼んだ覚えが一切ないのに、当方の「連翹忌通信」が連載されています。

今年はNHKさんの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、吉原が物語の一つの舞台として扱われていまして、便乗しました。題して「モナ・リザその後」。「モナ・リザ」は、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻頭を飾った詩「失はれたるモナ・リザ」の「モナ・リザ」です。

   モナ・リザは歩み去れり

 かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
 「よき人になれかし」と
 とほく、はかなく、かなしげに
 また、凱旋の将軍の夫人が偸(ぬす)視(みみ)の如き
 冷かにしてあたたかなる
 銀の如き顫音を加へて
 しづやかに、つつましやかに
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
 はれやかに解かれたれ
 ながく画堂の壁に閉ぢられたる
 額ぶちこそは除かれたれ
 敬虔の涙をたたへて
 画布(トワアル)にむかひたる
 迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
 ああ、画家こそははかなけれ
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 心弱く、痛ましけれど
 手に権謀の力つよき
 昼みれば淡緑に
 夜みれば真紅(しんく)なる
 かのアレキサンドルの青(せい)玉(ぎよく)の如き
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 我が魂を脅し
 我が生の燃焼に油をそそぎし
 モナ・リザの唇はなほ微笑せり
 ねたましきかな
 モナ・リザは涙をながさず
 ただ東洋の真珠の如き
 うるみある淡(うす)碧(あを)の歯をみせて微笑せり
 額ぶちを離れたる
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 かつてその不可思議に心をののき
 逃亡を企てし我なれど
 ああ、あやしきかな
 歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
 幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
 消えなば、いかに悲しからむ
 ああ、記念すべき霜月の末の日よ
 モナ・リザは歩み去れり

その正体は吉原河内楼の娼妓・若太夫。その日本人離れした目鼻立ちに、光太郎はひそかに「モナ・リザ」の面影を見、名付けました。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
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明治42年(1909)の『新よし原細見』には「若太夫 愛知県名古屋 真野しま 廿二」とあり、若太夫の本名は真野しま、名古屋の出身で、サバを読んでいなければ光太郎と知り合った明治43年(1910)には23歳でした。ただし、後述の木村荘太の『魔の宴』では「25歳」となっていました。

翌年には年季が明けるということで、光太郎と夫婦約束まで交わしたそうです。しかし、この恋はあえなく破れます。光太郎が若太夫に入れあげていることをかぎつけた、光太郎より六つ年下の作家・木村荘太が若太夫の元に通うようになりました。木村は後に武者小路実篤の「新しき村」にも参加しますが、この頃はやはり「パンの会」に顔を出し、雑誌『新思潮』に作品を発表していたもののさほど注目されていたわけでもなく、また、帝室技芸員の御曹司たる光太郎への嫉妬(木村は牛鍋屋チェーンの妾腹に生まれています)などもあったのでしょう。さらに若太夫は、気難しい光太郎よりも遊び慣れていた木村を採りました。そして書かれたのが、「失はれたるモナ・リザ」でした。

しかし木村は、年季が明け「若太夫」から「しま」に戻っても妻にするでもなく、しまは故郷の名古屋に帰っていきました。木村にしてみれば単なる鞘当てに過ぎなかったようです。その後すぐ、吉原では五社英雄監督の東映映画「吉原炎上」のモデルとなった大火が起こり、様子を見に上京して来たしまと会いましたが、それもそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950 朝日新聞社)に語られています。

光太郎は、再上京したしまについても詩にしています。その際に会ったのかどうかは不明なのですが。

   地上のモナ・リザ

 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
 石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
 世の人人のみにくさよ
 モナ・リザは山青く水白き
 かの夢のごときロムバルヂアの背景に
 やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
 ただ半身をのみあらはせかし
 思慮ふかき古への各画聖もかくは描きたりき
 現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

 われはモナ・リザを恐る
 地上に放たれ
 ちまたに語り
 汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
 モナ・リザの不可思議は
 仮象に入りて美しく輝き
 咫尺に現じて痛ましく貴し
 選択の運命はすでにすでに余を棄てたり
 余は今もただ頭をたれて
 モナ・リザの美しき力を夢む
 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

光太郎にとっても、もう終わった恋だから、今さら現れるな、モナ・リザよ、ということでしょう。

その後のしまについては、杳として消息が知れませんでした。ところがそれがある程度つかめました。国立国会図書館さんのデジタルデータの活用によってです。同データには、何と職業別電話帳(現在の「タウンページ」)まで掲載されていて、しまの故郷・愛知県のそれの中で2件、しまの名を見つけました。

まず大正11年(1922)。
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こちらは「席貸業」となっています。「席貸業」は「遊興又は慰安の用に供するため」のものということで、おそらく遊郭でしょう。住所は「伝馬」で、この地名は現在も名古屋市熱田区に残っています。明治43年(1910)にここにあった公認の遊郭街が他の地区に移転したと記録にありましたが、非公認のいわゆる「青線」のような形で残った店もあったと思われます。

大正11年(1922)は、しまの吉原河内楼での年季が明けて12年後。しまは30代半ばから後半だった計算になります。いきなりそうした店の女主人となれるはずもなく、結局、名古屋に戻ってもその道に入り、それを終えて女主人に収まったのではないでしょうか。

それからさらに13年後の昭和10年(1935)にも。ただ、「席貸業」ではなく「料理店」の項でした。この頃にはまっとうな料理屋になっていたのかも知れません。
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ちなみに少し後に「太田ひさ」の名。これは確認出来ている限り日本人で唯一ロダンのモデルを務め、その件で光太郎のインタヴューも受けた元女優「花子」の本名です。ひさも引退後は料理店関係の仕事をしていましたが、ただ、住所が一致しません。同姓同名の別人でしょうか。

突き止められた「若太夫」こと、しまの消息はここまでですが、光太郎同様に戦後まで生き延び、不幸ではない晩年を送ったと思いたいところです。そして彫刻家・詩人として名を成した、かつての恋人・光太郎を遠くから見守っていたとも。

そんなこんなを『とんぼ』の今号に書きました。奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

お医者さんや皆さんの相談で今日退院することになり、夕方出かけるでせう。

昭和30年(1955)7月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、4月から赤坂山王病院に入院していましたが、結局は手の施しようがなく、再び中野のアトリエでの療養生活に入ります。