千葉県から朗読公演の情報です。
期 日 : 2025年7月19日(土)
会 場 : 琥珀茶寮あずき 千葉県野田市上花輪1265-2
時 間 : 13:30 開場 14:00 開演
料 金 : 3,000円(ケーキ、ソフトドリンク付)
あずきでは様々なイベントを企画しています。今回ご縁がありまして森優子さんの朗読ライブを開催出来ることになりました(^^) 以前からお客様としていらして頂いてましたが、昨年お誘いを受け馬橋の万満寺様で開催された、小泉八雲の耳なし芳一を聴く機会があり、とても感動いたし、うちの店では無理かなぁと思いつつ言葉にしてみましたら(^^) 今回この様な運びとなりました。なかなか聴く機会のない朗読ライブ、ましてや智恵子抄です。楽しみです(^^) 25名限定です、もう既に半数はご予約頂いております。お早めのご予約お待ちしております。ライブ終了後ケーキとコーヒーで歓談したいと思います(^^)
存じ上げない方でしたが、フライヤーに印刷されたプロフィールを見てびっくり。「戦前の大俳優・丸山定夫の姪、女優・丸山由利亜に師事」。
丸山定夫は戦時中にはラジオ放送で光太郎の複数の翼賛詩を朗読していました。国会図書館さんのデジタルデータで「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)が公開されていますし、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による光太郎詩「必死の時」(昭和16年=1941、放送は翌年)が収録されています。
光太郎自身も大政翼賛会主催の朗読会などに出演し、自作の詩を朗読することもあって、そうした際に丸山と顔を合わせる機会があったのではないと思われます。室生犀星は、昭和17年(1942)に刊行された『筑紫日記』の中で「この間翼賛会で照井嬰三の朗読詩を聞き、丸山定夫のそれを聞き、また別な日に高村光太郎のそれを聞き、佐藤春夫のそれを聞いたのであつた」と書いています。残念ながら犀星が聞いたのは別の日だったようですが、同じ日に出演したりということも有ったかもしれません。
そして丸山は、国威発揚を目的にした移動演劇隊「桜隊」のリーダーとして、慰問に訪れていた広島で被爆、重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。「桜隊」については、故・大林宣彦監督が映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」で描きました。
光太郎、丸山の死については、戦後になって広島出身の小倉豊文あたりから聞かされたのではないかと推測されます。同じ頃、交流のあった高祖保、松木喜之七らの戦死の報にも接したでしょう。それらが花巻郊外旧太田村の山小屋での独居生活を「自己流謫(るたく……流罪に同じ)」と位置づける要因の一つとなったことは容易に想像できます。
さて、その丸山の姪・由利亜氏(昭和63年=1988公開の映画「さくら隊散る」などにご出演)に師事なさったという森優子氏による「智恵子抄」。これは聴かざあなるまいと、予約いたしました。
皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
談話筆記の方は原稿を見てからでないと御返事できません。
「談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、浅沼が校長を務めていた山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。
存じ上げない方でしたが、フライヤーに印刷されたプロフィールを見てびっくり。「戦前の大俳優・丸山定夫の姪、女優・丸山由利亜に師事」。
丸山定夫は戦時中にはラジオ放送で光太郎の複数の翼賛詩を朗読していました。国会図書館さんのデジタルデータで「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)が公開されていますし、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による光太郎詩「必死の時」(昭和16年=1941、放送は翌年)が収録されています。
光太郎自身も大政翼賛会主催の朗読会などに出演し、自作の詩を朗読することもあって、そうした際に丸山と顔を合わせる機会があったのではないと思われます。室生犀星は、昭和17年(1942)に刊行された『筑紫日記』の中で「この間翼賛会で照井嬰三の朗読詩を聞き、丸山定夫のそれを聞き、また別な日に高村光太郎のそれを聞き、佐藤春夫のそれを聞いたのであつた」と書いています。残念ながら犀星が聞いたのは別の日だったようですが、同じ日に出演したりということも有ったかもしれません。
そして丸山は、国威発揚を目的にした移動演劇隊「桜隊」のリーダーとして、慰問に訪れていた広島で被爆、重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。「桜隊」については、故・大林宣彦監督が映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」で描きました。
光太郎、丸山の死については、戦後になって広島出身の小倉豊文あたりから聞かされたのではないかと推測されます。同じ頃、交流のあった高祖保、松木喜之七らの戦死の報にも接したでしょう。それらが花巻郊外旧太田村の山小屋での独居生活を「自己流謫(るたく……流罪に同じ)」と位置づける要因の一つとなったことは容易に想像できます。
さて、その丸山の姪・由利亜氏(昭和63年=1988公開の映画「さくら隊散る」などにご出演)に師事なさったという森優子氏による「智恵子抄」。これは聴かざあなるまいと、予約いたしました。
皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
談話筆記の方は原稿を見てからでないと御返事できません。
昭和30年(1955)4月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳
「談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、浅沼が校長を務めていた山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。浅沼は活字にすることを希望し、翌年、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、結局、光太郎生前には実現しませんでした。
