昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を祀る天山祭りに列席のためです。今年は第60回の節目でした。
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第一回は、昭和41年(1966)。村人さんたちが心平のために建てて下さった天山文庫の竣工を祝ってのもので、もちろん心平も参加、郷土芸能の披露などが行われ、その後も約20年間、心平は都合のつく限り足を運び、村人さんたちと気のおけない交流を続けていました。

心平没後は、心平を祀る意味合いが付加。参加出来ない本人の代わりにドーンと大きな遺影。
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三度の飯より酒が好きだった心平に、日本酒の奉納。当会としても一本、持参しました。時系列が戻りますが、当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に2軒残る造り酒屋のうちの1軒で、一昨日購入しました。
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終了後には5本に増えていました。遺影の右の方には川内村産のワインなども。
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ちなみに申し遅れましたが、会場は当初予定の天山文庫ではなく、降雨のため、村民体育センターに変更でした。
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昨年は本来の会場の天山文庫で実施できましたが、一昨年も雨でこちらの会場で行われました。

画像はSNS等で公開しないようにというお達しがあり、上げられませんが、連翹忌の集いにもご参加下さったことがおありの実行委員長・井出茂氏のご挨拶 → 遠藤雄幸村長、心平が主宰していた詩誌『歴程』同人の方などの祝辞 → 心平遺影への献花 → 生前の心平の自作詩朗読録音の放送 → 小中一貫の川内小中学園6・7年生の皆さんによる自作詩朗読 → 『歴程』同人・伊武トーマ氏による心平作「わが抒情詩」朗読 → 鏡開き、といった流れ。

そこまで進んだあたりで正午を過ぎ、昼食タイム。こちらの画像は上げてもノープロブレムでしょう。少し食べてしまいましたが(笑)。
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もちもちの赤飯、特産の岩魚の塩焼き、山菜や南瓜・椎茸の天ぷら。お弁当が饗されるのはコロナ禍後初めてで、やはりこれでなくちゃ、という感じでした。

その後、元々の天山祭りで行われていた郷土芸能の披露等があり、散会。

霧雨がぽつぽつでしたが、その程度なら大丈夫と判断し、本来の会場だった天山文庫に立ち寄りました。大雨ならぬかるむ山道でパスでしたが。
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花手水がしつらえられていたのは、ここで祭りをやる予定だったためでしょうか。

1年ぶりに内部へ。
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心平が村に寄贈した書籍類。元々、別荘兼書庫として機能をもつ建物です。

いったん外の画像ですが、別棟の酒樽をイメージした小屋も書庫です。右の木立の中に見えるのが本館。
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ふたたび本館内部の画像。

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二階の座敷。
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左手の小窓から、一階の座敷が見おろせる構造。嫌な客が来ると、心平は二階のこの部屋に隠れ、下で秘書のような人に対応させていたとのこと(笑)。

その部屋の窓からの庭。
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来年はやはりここでやりたいものだと思いました。

敷地の入口にある阿武隈民芸館さんにも立ち寄りました。心平メインの展示施設です。
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心平と川内村、天山文庫に関する内容の他、心平著作(光太郎が題字を揮毫したもの、光太郎関連の心平著書を含め)や書、書簡などがずらり。何度も訪れていますが、そのたび興味深く拝見しています。

「天山文庫設立協力委員会発起人」の一人として、光太郎実弟の豊周も。
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同会、豊周以外もあらためて錚々たるメンバーです。井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、古田晁、松方三郎、武者小路実篤、村野四郎、山本健吉……。

それから豊周令息の写真家、故・髙村規氏から寄贈された写真パネル類。心平と光太郎の2ショットだったり、光太郎葬儀の際の心平だったり、中には規氏令息のやはり写真家・達氏とお姉様が若き日に心平と写ったものもあったり、髙村ファミリーと心平、という意味でも興味深い展示です。

足を運ばれたことがないという方、来年以降、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生お医者さまのすすめで今日入院してしばらく病院生活をする事にしました、 校歌の方の事は草野心平さんにでも頼んだらどうでせう、宮沢清六さんに御相談なさつたら如何。


昭和30年(1955)4月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

浅沼はかつて光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「校歌」は同校のものか、近隣の学校のものか、ちと不明です。いずれにせよ光太郎は校歌の作詞は頑なに引き受けず、代わりに心平に頼んではどうか、心平の連絡先は賢治実弟の清六に訊いてくれ、という意味です。

そしてこの日から、7月8日まで赤坂山王病院に入院しました。病状は一進一退、結局、すぐにどうこうという状態でもなく、しかし入院したからといってここまで進んだ結核の完治は不可能と判断され、また中野のアトリエでの療養生活に戻ります。