まず、明日開幕の件。

高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業「昔なつかし花巻駅」

期 日 : 2025年7月12日(土)~11月30日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 明治5(1872)年に新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通。その後、全国で鉄道の整備が進み、明治23(1890)年には花巻駅が開業し、東京と花巻がレールで結ばれました。
 花巻駅開業当時は駅周辺は田畑が広がる場所でしたが、岩手軽便鉄道や花巻電鉄の開業とともに交通の要所として発展していきました。
 この展覧会では、昭和11(1936)年に撮影された記録資料と、それも参考にして今回制作した昭和初期の花巻駅を中心としたまちの賑わいの様子を情景として表現したジオラマを展示します。
このジオラマを通じて、当時の花巻駅やまちの雰囲気を感じていただきたいと思います。
001
003
ジオラマの制作は、平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏。今回は土屋氏が中心にやられたそうですが。

前回は当方が仲介し、実現しました。江ノ電さんのジオラマ(運転士になりたかったものの病気で早世した少年にまつわるもの)などを作られていた石井氏が、ご自身のホームタウン・品川区大井町のジオラマも作成され、その中で智恵子が入院し、そこで亡くなったゼームス坂病院も組み込んで下さったのがご縁でした。

その際には仲介した責任上、何度か工房にもお邪魔し、さらに石井氏をロケハンにお連れしたり、資料類をお貸ししたりいたしました。そういえば、全体のレイアウトも当方が考えました。
005
作品は企画展終了後も第二展示室の中央に置かれていましたが、先月お邪魔した際には、企画展用の小部屋に移動されていました。
004
今回のものと一緒に並べるのかどうか、そこは訊いておりません。再来週伺いますので見て参ります。

今回の作品、石井氏のSNSから。
006
前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)だそうで、宮沢賢治存命中。したがってジオラマ中に賢治も居ます。
007
今回は資料をお貸ししたくらいであまり関わって居らず(石井氏のところで土屋氏にもお会いしてお話ししましたが)、完成した現物は未見で、早く見てみたいものです。

もう1件、同館での特別展示が来週7月15日(火)から。

智恵子のエプロン復刻展示 岩手県立花巻南高等学校家庭クラブ制作

期 日 : 2025年7月15日(火)~8月21日(木)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

智恵子デザインのエプロンを高校生がつくりました。素敵なエプロンと制作過程を展示。

8月4日(月)10時から 高校生から来館者に手作りしおりプレゼント(なくなり次第終了)。

001
002
無題
こちらに関してはまだ市のサイト等に詳細情報が上げられていません(苦言を呈させていただければ、どうも花巻市さんはこの辺りの対応が後手後手です。ジオラマ展のフライヤーも作られているのか作られていないのか、ネット上に上がっていません)が、『広報はなまき』の今月号にちらっと紹介されています。

「智恵子のエプロン」。大正13年(1924)の雑誌『婦人之友』で写真と型紙図面入りで紹介されたものです。
010 009
高村光太郎記念館さんで、『婦人之友』にかかわる市民講座を行った際、この件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さり、制作されました。

その後、昨年、花巻で開催されたイベント五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。出来上がったエプロンを拝見し、そのクオリティーの高さには舌を巻きました。
011
また、今年は福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」でも展示。家庭クラブさん、文芸部さんの生徒さんと顧問の先生方もご覧に来られました。
008
で、今度は高村光太郎記念館さんでの展示です。

同館では特別展「中原綾子への手紙」も開催中。また、7月23日(水)には二本松の智恵子生誕祭でも公演をされたヴォイスパフォーマーの荒井真澄さんと箏曲家の元井美智子さんによるコンサート(詳細はまたのちほど)も予定されています。
013 012
さらに駐車場脇の受付では、お子様向けに「木製輪ゴム鉄砲づくり」。実に盛りだくさんです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生まだ外出しません、しかし今年は仕事しなければなりません、

昭和30年(1955)1月4日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年が明け、光太郎、数えで73歳となりました。

この年、国際的にはワルシャワ条約機構が結成され、東西冷戦が激化。第1回原水爆禁止世界大会開催などもありました。国内ではいわゆる55年体制が始まりましたし、 森永ヒ素ミルク中毒事件などもありました。『広辞苑』や現行の1円玉、料金前納式の公衆電話機はこの年に登場。後楽園ゆうえんちが開園(アメリカではディズニーランド)。

光太郎は宿痾の肺結核がどんどん進行、春には赤坂山王病院に入院しますが、手の施しようがなく、結局、中野のアトリエでの療養生活に戻ります。しかし、詩や文章、そして書は制作を続けました。