昨日は上京しておりました。行き先は神田神保町の古書店、八木書店さん。目的は、こちらが主催の近代文学特別講座「活字をはみだすもの 第25回 高村光太郎「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」拝聴でした。
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それぞれ別の方が講師を務められる全4回の講座の最終回で、この回の講師は東海大学さん文学部日本文学科教授であらせられる大木志門氏。
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副題が「「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」ということで、茨城取手在住だった光太郎の姻族・宮崎稔(明34=1901~昭28=1953)にスポットが当てられてのお話でした。

まず驚いたのが、光太郎から宮崎、それから「鯉軒」とも号した宮崎の父・仁十郎、そして宮崎の妻にして智恵子の姪・春子宛書簡がズドンと200通ほど積み上げられていたこと。
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大木氏のコレクションかと思ったら、八木書店さんでお持ちのものだそうで、となると、いわば商品ですね。

光太郎からの宮崎家関係のこの手の書簡類、献呈本、書などはおそらくその全てが売却されてしまい、現在でも特に書簡類はよく市場にでるのですが、八木書店さんでこんなにたくさんお持ちだったというのは存じませんで、びっくりしました。

幸い、書簡類はおそらくその全てが『高村光太郎全集』に収録されています。ただ、細かい部分では『全集』で活字になっているものと齟齬があるようです。実際、昨日手にとらせていただいて拝見した一通は、『全集』では稔宛となっているものの、現物は春子宛でした。

ちなみに大木氏もご指摘されていましたが、表書きというか宛先というかが「取手町 宮崎○○様」で届いてしまっています。地区名や番地なしです。取手で「宮崎」といえばこの家、というほどの素封家だったことがわかります。仁十郎は日本画家・小川芋銭のパトロンでもありました。

光太郎と宮崎家との交流は戦前に遡ります。

仁十郎が檀家総代だった長禅寺さん境内に、「小川芋銭先生景慕之碑」が建てられたのが昭和14年(1939)。光太郎はその題字を揮毫しました。芋銭は前年に亡くなっています。
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太平洋戦争中の昭和19年(1944)には、やはり長禅寺さんで光太郎が講演。
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長禅寺さんといえば、戦後の昭和23年(1948)に山門前の石段脇に建てられた「開闡郷土」碑も光太郎が題字を揮毫しています。

取手で揮毫と言えば、旧取手町長・中村金左右衞門の子息二人(共に戦死)の墓碑の揮毫も光太郎。こちらは長禅寺ではなく、町外れの明星院さんという寺院近くの共同墓地に佇んでいます。

それら全て、宮崎家が仲介したり何だりで行われた事柄です。

稔は光太郎の手助けをいろいろ。最も大きかったのは、昭和20年(1945)5月の光太郎花巻疎開に際して。老年にさしかかり、健康も害していた光太郎に花巻まで同行したり、荷物の運送の手筈を調えたりしてやりました。その直前には、智恵子紙絵の約3分の1の疎開も引き受けています。

そんなわけで、光太郎は当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めてくれ、その最期を看取った智恵子の姪・春子を稔に紹介、二人は昭和20年(1945)の暮れに結婚しました。そして姻族となったわけです。

そこで、非常に近しい間柄だった宮崎家の人々に宛てた光太郎書簡は膨大なものになりました。その書簡群から垣間見える、特に戦中・戦後の光太郎について、大木氏が熱弁。
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レジュメの一部です。
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なるほど、たしかに量が多いだけに、さらに懇意にしていて踏み込んだ話もされることから、宮崎家宛ての書簡を概観するだけで、光太郎の動向やその時その時の心情がかなりわかるもんだな、と思いました。

ただ、光太郎にしてみれば困った点も。稔が光太郎の意志に反し、「やめてくれ」というのを振り切って、歌集『白斧』(昭和22年=1947)、書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)を強引に出版してしまったことなどです。

それを受けて、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜では、当会顧問であらせられた北川太一先生、昭和28年(1953)4月の項に「二十七日、何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血の末、四十三歳で没した」と書きました。実際、光太郎としては悼む気持も当然ありつつ、胸をなで下ろした部分もあったと思われます。

そしておそらく昭和63年(1988)に春子が没してからと思われますが、宮崎家関係の書簡類、献呈本、書などのおそらく全てが売却されてしまいました。先述の通り、そのうちの書簡200通ほどが八木書店さんに保管されています。八木さんとしては「これ、どうしよう」という部分もおありのようです。花巻高村光太郎記念館さんや駒場の日本近代文学館さんなどに寄贈していただければありがたいのですが、数百万円にはなるであろう市場価値を考えると、簡単に寄贈してくれ、とも言えません。さりとて予算の少ない公立の館で買い取る算段が付くか、というとそれも疑問です……。

さて、終了後、大木氏から氏の編集なさった下記書籍をいただいてしましました(と言いつつ、いただけるだろうなと姑息な予想をしておりまして(笑)、購入せずにいたものです)。
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田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』。文庫サイズです。

てっきり一冊の書籍だと思い込んでいたのですが、袋から出してびっくり。何と、全9冊に分かれていました。「アンソロジー」ということで、光太郎作品群が8冊。
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それから大木氏の解説が書かれた「チュートリアルブック」が一冊。
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直接大木氏に伺ったのですが、『道程』や『智恵子抄』などのメジャーどころは敢えて外したとのこと。

表紙(というかカバー)がこうなっているのは、光太郎も登場するオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画であるためだそうで。同ゲーム、「文アル」と略され、朗読CD演劇などでも光太郎がらみになったことがありますし、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画もありました。こういうところを入口に、若い皆さんが興味を持って下さるのは大歓迎です。

ちなみに大木氏の「チュートリアルブック」中には清家雪子氏の漫画『月に吠えらんねえ』にも言及がありました。

多謝。

というわけで、田畑書店さんサイトからご注文下さい(都内の一部の新刊書店などでも扱いが始まったようですが)。

【折々のことば・光太郎】

小生は今安静中でお医者が三、四人見にきます、 外出しないので此手紙発送も中西夫人にお願します、


昭和29年(1954)6月3日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳

これも春子宛の書簡です。

光太郎の結核悪化を心配した周囲の人物が、それぞれ懇意にしている医師を紹介。そこで「お医者が三、四人」です。医師達も心得たもので、「チーム・バチスタ」ならぬ「チーム・光太郎」を組んで、中野のアトリエへの往診や治療に当たってくれました。