やはり取り上げるべき事項の山積中で、3件まとめてご紹介します。
まず今週末まで和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「佐藤春夫の美術愛」について、『毎日新聞』さん。6月16日(月)、夕刊の掲載記事です。
1990年代、「広告は私たちに微笑みかける死体」というセンセーショナルなタイトルの本が話題になった。当時ベネトンのアートディレクターだった著者による広告哲学や創作論で、ただ「購買意欲を刺激し商品を買わせる」ためだけではなく、社会や世界が抱える問題に対して広告がどんな一石を投じ得るのか、が書かれていて、非常に面白く読んだ。
「上下左右を広告に取り囲まれていったい自分が何の記事を読みたかったのかわからなくなってしまうことがある」、まさにその通りですね。それにしても広告で空が占領されることになるのも嫌ですが、ミサイルや無人ドローン攻撃機に溢れる空はもっと嫌です。
最後に『茨城新聞』さん。
光太郎が入学した際の東京美術学校長だった岡倉天心がらみのイベントで、光太郎の父・光雲を同校に招聘した際の天心の言葉が紹介されたようです。
具体的なところは、光雲が遺した『光雲懐古談』(昭和4年=1929)で語られています。
「竹内氏に答へたこと」はその前の部分にあります。「竹内氏」は竹内久一、やはり彫刻家です。
「今のお話でよく訳は分りましたが、どうも私はさういふ学校といふやうな所へ出て教師の役をつとめるなどといふことは私には不向きだと思ひます。つまり、私はその衝に当る人でないと思ひます。家にゐて仕事をして傍ら弟子を教へることなら教へますが、学校といふやうなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はさういふ生立でありませんから……なまじつか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困るし、他も迷惑と思ひます。此はお断りしたいものです。」
こういう「目で見て盗め」というスタイル、弊害もあるのでしょうが、いいところもあるのでしょう。それだけに拘泥すると、後継者が育たないという気もしますが……。
当該箇所、青空文庫さんで読めます。ご高覧下さい。
3件ご紹介しましたが、『毎日』さんと『茨城新聞』さんの記事では、光太郎や光雲がある程度のネームバリューを保っているためその名が出て来るわけですし、『日経』さんにいたっては詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をご存じない方には「何のこっちゃ?」となってしまうでしょう。実際、そういう方も少なくはないと思うのですが、そういう度し難き縁無き衆生が少しでも減るように、今後も頑張らんといかんな、と思う次第です。
【折々のことば・光太郎】
少々健康を害してゐて、このてがみも中西さんの奥さまにおたのみして郵便局へ行つていただく次第です、小生も老年の事ゆゑ、あまりあてにしてゐるとあぶないです、
居住していた中野の貸しアトリエから郵便局までは数百㍍。ただしちょっとした坂を上っていかねばなりません。この頃にはそれも困難になっていました。
光太郎が遺したメモに書かれていた地図です。おそらく後に雇った家政婦さんのために書かれたものと思われます。左下に「中西」とあるのがアトリエ、郵便局は「〒」マークで示されています。現在はセブンイレブンさんが建っています。
まず今週末まで和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「佐藤春夫の美術愛」について、『毎日新聞』さん。6月16日(月)、夕刊の掲載記事です。
和歌山で佐藤春夫の旧蔵品展 文豪の目利きと版画愛
作家・佐藤春夫(1892~1964年)旧蔵の美術作品を中心とした企画展「佐藤春夫の美術愛」が、和歌山市の和歌山県立近代美術館で開かれている。昨年度、遺族から所蔵作品61件148点の寄贈を受け、本展ではそのうち112点を中心に、ゆかりの150点を展示している。
目を引くのは、版画の多さだ。作家・内田百閒(ひゃっけん)に「風船画伯」と名付けられ、文学者に愛された版画家・谷中安規(1897~1946年)の作品や、作家仲間の武者小路実篤らと購入した作品を分け合ったフランシスコ・デ・ゴヤの連作版画集「ロス・カプリーチョス」などが並ぶ。
佐藤は和歌山県新宮市出身。文学を志して上京し、慶応義塾大で永井荷風らの指導を受けた。与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻の新詩社では堀口大学と出会う。1918年に小説「田園の憂鬱」で注目を集めるが、それまでは評価を得られず、美術家を目指した時期もあった。二科展にも連続入選しており、本展では佐藤の絵画作品2点も展示。絵画制作を始めるきっかけの一つとなった高村光太郎の手による佐藤の肖像画も出展されている。
展示は4章構成。中でも注目は、川上澄生(1895~1972年)と谷中の作品群だ。 川上は宇都宮市を拠点に大正半ばから昭和にかけて活躍した木版画家で、佐藤の著作の装丁なども手がけた。川上の作品を知人から贈られ、佐藤が<狂喜魅了>したことを記した手紙も残されている。物語性に富む静物画や、、川上の25~31年の主要な作品が並ぶ。 芸術家肌で興味のままに行動することから百閒に「風船画伯」と名付けられた谷中は、飛行船やロボットなど近未来的な素材と民話など土着的なテーマを融合させた幻想的な世界を生み出した。佐藤は自著の装丁を依頼するだけではなく、作家仲間にも紹介するなど、谷中の活動を支援。締め切りに大幅に遅れた谷中への督促はがきも展示され、末尾に書かれた佐藤の「カンシャク先生」の署名からは、2人の親しい関係が読み取れる。
谷中は46年、栄養失調のために亡くなった。わずかな遺品の中には、佐藤や与謝野晶子ら文学者からの手紙類が大切に残されていた。本展でもその一部を見ることができる29日まで。
これまでもたびたび同展の報道が為されています。
和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」展報道。
和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」図録、報道。
会期末近くなってまたこうした報道が出ると、それまで開催に気づいていなかった人々が「こんなんやってたんかい」となることもあるので、ありがたいところです。
続いて『日本経済新聞』さん、6月17日(火)夕刊。小説家の一穂ミチ氏の連載コラムです。
谷中は46年、栄養失調のために亡くなった。わずかな遺品の中には、佐藤や与謝野晶子ら文学者からの手紙類が大切に残されていた。本展でもその一部を見ることができる29日まで。
これまでもたびたび同展の報道が為されています。
和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」展報道。
和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」図録、報道。
会期末近くなってまたこうした報道が出ると、それまで開催に気づいていなかった人々が「こんなんやってたんかい」となることもあるので、ありがたいところです。
続いて『日本経済新聞』さん、6月17日(火)夕刊。小説家の一穂ミチ氏の連載コラムです。
ゾンビがいっぱい
1990年代、「広告は私たちに微笑みかける死体」というセンセーショナルなタイトルの本が話題になった。当時ベネトンのアートディレクターだった著者による広告哲学や創作論で、ただ「購買意欲を刺激し商品を買わせる」ためだけではなく、社会や世界が抱える問題に対して広告がどんな一石を投じ得るのか、が書かれていて、非常に面白く読んだ。 2020年代半ばの現在、広告はもはや「私たちを包囲するゾンビ」だと感じる。群れをなし、動き、声を上げる。広告を見るまいと目を背けることは、あらゆる情報ツールを遮断するということなので、日常生活ではほぼ不可能だ。タクシーの車内に広告が出るモニターが設置され始めた時には「とうとうこんなところにまで」と思った。それで、「ゴルフ場のカートのモニターに広告を流しませんか」なんて売り込んでくる。もう広告のマトリョーシカ状態。あらゆる余白、あらゆる画面にゾンビは寄ってくる。
いえ、創作で小商いをしている身としては、もちろん痛いほどわかっております。何かを売るには宣伝、プロモーション、ブランディングが不可欠。「わたし、ここにいます」と声を張り上げなきゃ始まらない、知らないものは存在しないも同然だから。誰もがそう思い、モノと情報の過当競争の中でわたしたちの視界にはおびただしい存在証明が溢(あふ)れかえることになる。
新聞やテレビと違って良くも悪くも自由度が高いネット広告にその密度は顕著で、上下左右を広告に取り囲まれていったい自分が何の記事を読みたかったのかわからなくなってしまうことがある。「閉じる」のボタンが砂粒みたいな小ささだったり、タップしても反応が鈍かったり。そのくせ、広告が開く時は指先が掠(かす)っただけでポンっと現れる気がする。ずるくないか。閉じても閉じても湧いてきて、最近は「○秒間広告が流れます」と時間で縛ってくるものも増えた。あと、スマホアプリに挟まってくるゲームの広告、何で実際ダウンロードしてみると違う内容なんですか? CMどおりに王様助けさせてくれ!
動画系のサブスクなら広告を回避しようと思えば課金制の有料プランへご案内、となる。広告の枠を用意してお金を集め、広告のカットでもお金を集める……マッチポンプみたいにけったいなビジネスモデルが大手を振ってまかり通っている。
街を歩くとさまざまな看板が目に入る。最近、動かない広告を見ると、よしよし、ちゃんと死んでるね、とほっとする。ネオンがちかちかするくらいなら許容範囲、道頓堀の主張とクセが強すぎる立体看板もパビリオンみたいなものだからよしとしよう。そして目が疲れると、まっさらな空をしばし見上げる。子どもの頃はたまにアドバルーンを見かけた。あれはわくわくして好きだった。今は、高層の建物が増えたせいか、とんとお目にかからない。そのうち、空にも「モデルルーム公開中!」とか「新曲発売!」とか表示されるようになるかも。椎名誠の小説「アド・バード」みたいに。
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」――高村光太郎の「智恵子抄」の一節を、智恵子とは似て非なる感慨でつぶやく日が来たりして。近畿も梅雨入りしたけれど、外に出て「ほんとの空」を見ておこう。無課金のうちにね。
「上下左右を広告に取り囲まれていったい自分が何の記事を読みたかったのかわからなくなってしまうことがある」、まさにその通りですね。それにしても広告で空が占領されることになるのも嫌ですが、ミサイルや無人ドローン攻撃機に溢れる空はもっと嫌です。
最後に『茨城新聞』さん。
天心の思想、実像に迫る 専門家2人が対談 北茨城・五浦美術館
美術思想家の岡倉天心について考える対談イベント「日本美術院の系譜-五浦で岡倉天心を語る-」が21日、茨城県北茨城市大津町の県天心記念五浦美術館で開かれた。天心ゆかりの日本美術院同人の手塚雄二さんと同館長の小泉晋弥さんの2人が登壇し、残された逸話や記録に触れながら天心の思想や実像に迫った。
イベントは茨城大五浦美術文化研究所開設70周年事業の一環で、大学や同美術院関係者、一般来場者の計約70人が参加した。
手塚さんは、天心の系譜で自身も師事した日本画家の平山郁夫さんについてトークを展開。平山さんが若い頃から教授になるなど将来像を描いていたと考察したのに対し、小泉さんは「天心も若い時に(文部大臣になるなど)人生ノートを書いていた」との逸話を紹介した。
手塚さんは「絵描きではない天心が、絵描きにどう教えていたのか」と疑問も提起。小泉さんは、弟子が描いた作品の批評会を例に挙げ、画家の素質に合わせ「言葉を選びながら指導していた」と語った。
さらに、手塚さんは東京芸大の助手時代、平山さんから「絵を教えては駄目。背中を見せなさい」と指導された思い出を回顧。小泉さんは、天心が東京美術学校を開校する際、「(講師に招いた)高村光雲に言ったことと全く同じ言葉」と共通点を指摘した。
光太郎が入学した際の東京美術学校長だった岡倉天心がらみのイベントで、光太郎の父・光雲を同校に招聘した際の天心の言葉が紹介されたようです。
具体的なところは、光雲が遺した『光雲懐古談』(昭和4年=1929)で語られています。
それから、午後四時頃私は出掛けて行つた。岡倉氏に面会すると、同氏は私の来訪を待つてゐた所だと云つて、「今日、竹内氏をもつて御願ひした件は何ういふことになりましたか。」
といふ。私は竹内氏に答へたことゝ同じ意味のことを答へますと、
「高村さん、それはあなたは考へ違ひをしてゐられる。学校をさうむづかしく考へることはいりません。あなたは字もならはない、学問もやらないから学校は不適任とお云ひですが、今日、あなたにこの事をお願ひするまでには私の方でも充分あなたのことに就いては認めた上のことですから、さういふことは万事御心配のないように願ひたい。あなたに出来ることをやつて頂かうといふので、あなたの不得手なことをやつて頂かうといふのではありません。多くの生徒に就くことなどが鬱陶しいなら、生徒に接しなくとも好いのです。」
といふやうに岡倉氏は説いてゐられる。説明岡倉氏のするところは中々上手いので、私に嫌といはさないやうに話しを運んでゐられる。氏はさらに言葉を継ぎ、
「それで、あなたがお宅の仕事場でやつてゐられることを学校へ来てやつて下さい。学校を一つの仕事場と思つて……つまり、お宅の仕事場を学校へ移したといふ風に考へて下すつて好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教へる必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見てゐれば好いわけで、それが取りも直さず、あなたが生徒を教へることになるのです。」
といふ風に話されるので、自分のことを私が云はうと思へば、先を越して云つてしまつてどうにも辞退の言葉がないやうな有様になりました。
「竹内氏に答へたこと」はその前の部分にあります。「竹内氏」は竹内久一、やはり彫刻家です。
「今のお話でよく訳は分りましたが、どうも私はさういふ学校といふやうな所へ出て教師の役をつとめるなどといふことは私には不向きだと思ひます。つまり、私はその衝に当る人でないと思ひます。家にゐて仕事をして傍ら弟子を教へることなら教へますが、学校といふやうなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はさういふ生立でありませんから……なまじつか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困るし、他も迷惑と思ひます。此はお断りしたいものです。」
こういう「目で見て盗め」というスタイル、弊害もあるのでしょうが、いいところもあるのでしょう。それだけに拘泥すると、後継者が育たないという気もしますが……。
当該箇所、青空文庫さんで読めます。ご高覧下さい。
3件ご紹介しましたが、『毎日』さんと『茨城新聞』さんの記事では、光太郎や光雲がある程度のネームバリューを保っているためその名が出て来るわけですし、『日経』さんにいたっては詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をご存じない方には「何のこっちゃ?」となってしまうでしょう。実際、そういう方も少なくはないと思うのですが、そういう度し難き縁無き衆生が少しでも減るように、今後も頑張らんといかんな、と思う次第です。
【折々のことば・光太郎】
少々健康を害してゐて、このてがみも中西さんの奥さまにおたのみして郵便局へ行つていただく次第です、小生も老年の事ゆゑ、あまりあてにしてゐるとあぶないです、
昭和29年(1954)5月7日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳
居住していた中野の貸しアトリエから郵便局までは数百㍍。ただしちょっとした坂を上っていかねばなりません。この頃にはそれも困難になっていました。


