一昨日から1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりまして、昨夜帰宅いたしました。レポートします。
メインの目的は、昨日行われた、さまざまな方面でご活躍中の花巻市の登録ボランティアの方々への講演でしたが、もう一つ、花巻高村光太郎記念館さんで4月26日(土)に始まった特別展「中原綾子への手紙」の拝観。
中原は与謝野晶子の弟子の歌人、詩人。戦前から同門ともいうべき光太郎と交流があり、自身で雑誌『いづかし』『スバル』などを主宰して光太郎の寄稿をあおいだり、複数の自著歌集・詩集にも光太郎に序文を書いてもらったりしています。記念館さんのある花巻郊外旧太田村の山小屋にも訪れ、その際の様子や、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことなどを大量の短歌に詠んだりもしています。
昨年、ご遺族より中原から光太郎宛の書簡類、原稿類がごそっと寄贈され、そのうち書簡類のお披露目です。原稿等に関しては来年度以降とのこと。
量が多いので、4期に分け、現在第1期です。
それでもこうした場合に使う小部屋では狭すぎて、通常の第2展示室を縦断する形でパーテーションのボードを立て、その両面に。ちなみに小部屋の方ではブリヂストン美術館歳作制作の「美術映画 高村光太郎」をモニターで流し、第二展示室中央にあったジオラマを移動させています。
翌日が市街地で講演でしたが、9時過ぎに会場入りすればいいということなので、朝はゆっくり致しました。
以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった「ギャラリー茅」。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が大沢温泉さんのご常連ということで、ミニジブリ美術館的な感じで運用されています。
現在は「トトロとジブリとカンヤダと」展が開催中(入館料600円)。
ジブリ関係のお仕事も多数なさっているカメラマンのカンヤダ・プラテン氏の作品など。
講演会場へ。
宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農学校跡地のぎんどろ公園、賢治の菩提寺・身照寺さん近くの花巻市総合福祉センターさん。
「光太郎はなぜ花巻に来たのか」という題で、90分ほど語らせていただきました。
光太郎とはどういう人物だったのかのアウトライン、そして賢治本人や、賢治没後の宮沢家との関係、花卷市内に残る光太郎関連史跡などなど。
終了後、昼食をやつかの森LLCさんに御馳走になってしまい、恐縮。
さらに市街豊沢町のカフェ羅須さんへ。
来月当会がらみで、こちらと、それから高村光太郎記念館さんとで、箏曲家の元井美智子さん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのコンサート(詳細はまたのちほど)を開催させていただくことになりまして、ご挨拶。
こちらはギャラリーも併設されています。現在は市内の高校さんで教壇に立たれている髙橋圭子さんという方の作品が飾られています。
ポストカードが販売中。高村山荘を描かれたものがあり、購入させていただきました。いい感じです。
こちらには何度かお邪魔していたものの、その際に気づきませんでしたが、賢治の親友で、光太郎とも交流のあった藤原嘉藤治が写った写真も掲示されていました。
今後、嘉藤治がらみでいろいろ調べたりしなければならないことがあるので、奇縁に驚きました。
そんなこんなで用件を済ませ、帰途に就きました。
途中にも書きましたが、花卷では今後もいろいろなイベントが企画されています。また後ほどご紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生も肋間神経痛といふものがあつて、動きまはるのに不自由を感じてゐます、東京の街上へもあまり出ないでゐる始末なので、録音なども先方から来てもらつてやつてゐます、泊町まで果して行けるかどうか、まだ決定しかねてゐます、
「結核」の語は使っていませんが、もはやかなりの重度でした。「泊町」は富山県。ぜひ一度おいであれ、というのですが、それが可能な状態ではありません。
結局、前年11月から12月にかけて旧太田村に帰村したのを最後に、一歩も東京を出ることはありませんでした。
ところが花卷の宮沢賢治記念館では、宮沢家で撮られた集合写真のキャプションに「昭和29年」。賢治関連の複数の文献にそう書かれていて、そのまま引き写されているのですが、大間違いです。昨日はその話もさせていただきました。

メインの目的は、昨日行われた、さまざまな方面でご活躍中の花巻市の登録ボランティアの方々への講演でしたが、もう一つ、花巻高村光太郎記念館さんで4月26日(土)に始まった特別展「中原綾子への手紙」の拝観。
中原は与謝野晶子の弟子の歌人、詩人。戦前から同門ともいうべき光太郎と交流があり、自身で雑誌『いづかし』『スバル』などを主宰して光太郎の寄稿をあおいだり、複数の自著歌集・詩集にも光太郎に序文を書いてもらったりしています。記念館さんのある花巻郊外旧太田村の山小屋にも訪れ、その際の様子や、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことなどを大量の短歌に詠んだりもしています。
昨年、ご遺族より中原から光太郎宛の書簡類、原稿類がごそっと寄贈され、そのうち書簡類のお披露目です。原稿等に関しては来年度以降とのこと。
量が多いので、4期に分け、現在第1期です。
それでもこうした場合に使う小部屋では狭すぎて、通常の第2展示室を縦断する形でパーテーションのボードを立て、その両面に。ちなみに小部屋の方ではブリヂストン美術館歳作制作の「美術映画 高村光太郎」をモニターで流し、第二展示室中央にあったジオラマを移動させています。

ケースに入れての展示も。
宛先苗字が「曽我」や「小野」となっているものもあるのは、中原が結婚・離婚を繰り返したためです。結局、ペンネーム的には「中原」姓を使い続けましたが。
書簡類だけでは地味ですし、一般の方には馴染みの薄い名前なので、ビジュアル的な部分と、こういう業績を残した人物なんだよ、という意味で、手許にあった(一部は新たに購入した)光太郎がらみの中原の著書や主宰雑誌など関連史料をお貸ししました。それらもケースで展示して下さっています。
中原が光太郎に贈られ、光太郎没後に自著詩集『灰の詩』に口絵として写真版を掲載した色紙も。
昨年、タイミング良く京都の思文閣さんで入札に出したものです。七五調四句の今様スタイルで「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。複数の揮毫が確認出来ています。
これを包んでいた畳紙(たとう)も額に入れてお貸ししました。題箋は中原の自筆なので。
宛先苗字が「曽我」や「小野」となっているものもあるのは、中原が結婚・離婚を繰り返したためです。結局、ペンネーム的には「中原」姓を使い続けましたが。
書簡類だけでは地味ですし、一般の方には馴染みの薄い名前なので、ビジュアル的な部分と、こういう業績を残した人物なんだよ、という意味で、手許にあった(一部は新たに購入した)光太郎がらみの中原の著書や主宰雑誌など関連史料をお貸ししました。それらもケースで展示して下さっています。
中原が光太郎に贈られ、光太郎没後に自著詩集『灰の詩』に口絵として写真版を掲載した色紙も。
昨年、タイミング良く京都の思文閣さんで入札に出したものです。七五調四句の今様スタイルで「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。複数の揮毫が確認出来ています。
これを包んでいた畳紙(たとう)も額に入れてお貸ししました。題箋は中原の自筆なので。
「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりたるもの 綾子誌す」。一度、「山口村」と誤記して「太田村山口」と訂正されています。
寄贈された書簡の中には、他に類例のない、智恵子の心の病の病状を事細かに記したものも複数あります。それらは今回はあまり展示されず、2期以降となります。
また、今後、短期間で実にいろいろと他の企画が目白押しです。当会を含めたいろいろな組織等がそれぞれ別個に「あれもやりたい、これもやりたい」となってしまったようで。また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。
拝観後、隣接する山小屋(高村山荘)へ。ルーティンですがこちらにおわすであろう光太郎のご分霊にご挨拶。
宿泊は定宿の大沢温泉さん。
寄贈された書簡の中には、他に類例のない、智恵子の心の病の病状を事細かに記したものも複数あります。それらは今回はあまり展示されず、2期以降となります。
また、今後、短期間で実にいろいろと他の企画が目白押しです。当会を含めたいろいろな組織等がそれぞれ別個に「あれもやりたい、これもやりたい」となってしまったようで。また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。
拝観後、隣接する山小屋(高村山荘)へ。ルーティンですがこちらにおわすであろう光太郎のご分霊にご挨拶。
宿泊は定宿の大沢温泉さん。
以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった「ギャラリー茅」。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が大沢温泉さんのご常連ということで、ミニジブリ美術館的な感じで運用されています。
現在は「トトロとジブリとカンヤダと」展が開催中(入館料600円)。
ジブリ関係のお仕事も多数なさっているカメラマンのカンヤダ・プラテン氏の作品など。
講演会場へ。
宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農学校跡地のぎんどろ公園、賢治の菩提寺・身照寺さん近くの花巻市総合福祉センターさん。
「光太郎はなぜ花巻に来たのか」という題で、90分ほど語らせていただきました。
光太郎とはどういう人物だったのかのアウトライン、そして賢治本人や、賢治没後の宮沢家との関係、花卷市内に残る光太郎関連史跡などなど。
終了後、昼食をやつかの森LLCさんに御馳走になってしまい、恐縮。
さらに市街豊沢町のカフェ羅須さんへ。
来月当会がらみで、こちらと、それから高村光太郎記念館さんとで、箏曲家の元井美智子さん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのコンサート(詳細はまたのちほど)を開催させていただくことになりまして、ご挨拶。
こちらはギャラリーも併設されています。現在は市内の高校さんで教壇に立たれている髙橋圭子さんという方の作品が飾られています。
ポストカードが販売中。高村山荘を描かれたものがあり、購入させていただきました。いい感じです。
こちらには何度かお邪魔していたものの、その際に気づきませんでしたが、賢治の親友で、光太郎とも交流のあった藤原嘉藤治が写った写真も掲示されていました。
今後、嘉藤治がらみでいろいろ調べたりしなければならないことがあるので、奇縁に驚きました。
そんなこんなで用件を済ませ、帰途に就きました。
途中にも書きましたが、花卷では今後もいろいろなイベントが企画されています。また後ほどご紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生も肋間神経痛といふものがあつて、動きまはるのに不自由を感じてゐます、東京の街上へもあまり出ないでゐる始末なので、録音なども先方から来てもらつてやつてゐます、泊町まで果して行けるかどうか、まだ決定しかねてゐます、
昭和29年(1954)4月20日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎72歳
「結核」の語は使っていませんが、もはやかなりの重度でした。「泊町」は富山県。ぜひ一度おいであれ、というのですが、それが可能な状態ではありません。
結局、前年11月から12月にかけて旧太田村に帰村したのを最後に、一歩も東京を出ることはありませんでした。
ところが花卷の宮沢賢治記念館では、宮沢家で撮られた集合写真のキャプションに「昭和29年」。賢治関連の複数の文献にそう書かれていて、そのまま引き写されているのですが、大間違いです。昨日はその話もさせていただきました。
















































