6月15日(日)、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会」について、地元紙『福島民報』さんが報じていますのでご紹介します。

同じ『民報』さんで2バージョンの記事。まず県内全域向けと思われる方。ネット上でもこの内容でした。

第100回定演祝う歌声響く 二本松音楽協会 「からくりうた」を初演 福島県二本松市

 二本松音楽協会の第100回定期演奏会は15日、福島県二本松市コンサートホールで開かれ、地域の音楽文化発展に貢献してきた演奏会の節目を祝った。
 カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが出演。高村光太郎の詩集「智恵子抄」から、佐藤さんが作曲した「からくりうた」を初演した。深く澄んだ歌声で日本情緒豊かに表現し喝采を浴びた。「あどけない話」「レモン哀歌」なども披露し、100回の歴史を祝福した。シューベルトの「白鳥の歌」全14曲も歌い上げ、感動を呼んだ。
 1988(昭和63)年のホール完成を機に有志が協会を結成し、1989(平成元)年から毎年数回、クラシックを中心に手作りのコンサートを開いている。太田英晴会長(大七酒造社長)は「100回の歴史を重ねることができたのは市民の音楽を愛する心のたまもの。これからも長く続けていきたい」と語った。
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おそらく二本松市を含む中通り地区向けと思われるバージョン。こちらの方が「智恵子抄」に詳細に触れています。

二本松音楽協第100回定演 「智恵子抄」の曲初演 情感ある旋律伸びやかに

 二本松音楽協会が15日に二本松市コンサートホールで開いた第100回定期演奏会では、カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが高村光太郎の詩集「智恵子抄」より「からくりうた」を初演し、節目に花を添えた。
 「二本松」「阿武隈川」などが登場する詩に佐藤さんが情感あふれる旋律を付けた曲。藤木さんが澄んだ歌声で伸びやかに歌い上げた。「あどけない話」とともにアンコールでも披露し、詰めかけた聴衆を喜ばせた。
 藤木さんは「100回の歴史の一部となることができて本当にうれしい。『からくりうた』は民謡調で、日本酒を飲みながら楽しんでもらうのもいい」などと提案した。太田英晴会長は「素晴らしい曲で、間違いなく二本松の宝になる。藤木さん、佐藤さんも二本松での再演を約束してくれた」と喜んでいる。
 市コンサートホールは今後、改修工事に入る。次回の第101回定期演奏会は9月23日に安達文化ホールでピアノの鬼武みゆきさんのコンサート、第102回は来年3月8日に市民交流センターで市内出身のオーボエ奏者鹿又寒太郎さんらによるトリオ・ダンシュのコンサートを開く。


初演された「からくりうた」。作曲され、当日はご自身でピアノを弾かれた佐藤卓史氏のX(旧ツィッター)投稿で、さわりの部分のみ動画がアップされていました。


確かに「民謡調」ですね。

お二方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

別件で、やはり福島での楽曲「智恵子抄」がらみの報道。須賀川市で発行されている「あぶくま時報」さんの記事です。

太鼓演奏などで長寿祝う 八幡町町内会「敬老会」

 須賀川市八幡町町内会「敬老会」は15日、町内の75歳以上25人が参加して八幡山集会所で開かれ、子どもたちの太鼓演奏や日本舞踊などアトラクションで親ぼくを深めた。
 全員で物故者に黙とうを捧げ、佐藤富二会長は「みなさんお越しくださりありがとうございます。長年、町内発展のためにいろいろとご協力くださりほんとうにありがとうございます。今日は一日楽しんでゆっくりと過ごしてください」とあいさつした。来賓の大寺正晃市長も祝辞を述べた。
 アトラクションは八幡町子ども育成会の太鼓演奏「神炊館(おたきや)」を元気いっぱい演奏し、懐かしい昔話「ふくろうの染物屋」を方言混じりで披露された。
 藤蔭流三藤会が「智恵子抄」など4曲を披露し、最後に参加者全員で懐かしい「須賀川盆踊り」を楽しんだ。
 須賀川市は今年度も自主的に敬老事業を開く行政区・町内会を支援しており、22日は東町と南上町、29日は下宿町で実施する。
 ほかに敬老祝い商品券・一日温泉入浴券を喜寿・傘寿・卒寿。白寿に、米寿と賀寿には祝い金をそれぞれ贈る。
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おそらく「智恵子抄」は、小野町出身の故・丘灯至夫氏作詞で、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる昭和39年(1964)の「智恵子抄」と思われます。

こちらの「智恵子抄」も末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康で、毎日胸像制作にかかつて居り、夜は原稿を書いてゐます、まつたく殆ど余分の時間がありませんが、時々温泉に行きたくなります、うまく仕事のきれ目を見て一寸大沢温泉あたりにゆきたいです、

昭和29年(1954)3月10日 浅沼政規宛書簡より 光太郎72歳

002「胸像」は、倉田雲平胸像。光太郎実弟の豊周が仲介し、2月から制作にかかりました。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれで、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、という社からの依頼でした。

しかし、健康状態の悪化により、結局は完成させることができず、まさに「遺作」となってしまいました。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。