光太郎の父・光雲作の木彫の特別ご開帳です。
期 日 : 2025年6月~2026年1月までの日曜日・月曜日
会 場 : 鎌倉覚園寺 神奈川県鎌倉市二階堂421
時 間 : 13:30~
後醍醐天皇御像髙村光雲作特別開帳をいたします。愛染明王さま修繕に伴う初の試みです。
このたび覚園寺 愛染明王像の赤色剥落が目立ちはじめた為、修繕することにいたしました。今回の工期はおよそ一年です。万全なおもどりを、どうぞご期待下さい。愛染堂の中央尊がお留守になる事態の対処を覚園寺役員で話し合い、愛染明王様の留守を護り、皆さまに安心と生きる喜びを感じていただきたいと願い、これまで大切に祈り護持してきた秘仏を開帳することにいたしました。今回開帳いたします尊像は、小さな像ですが、愛染明王さまと同様に金剛杵と金剛鈴をもち、中世の仏教文化にも深く寄与された 後醍醐天皇 御像 髙村光雲 作です。後醍醐天皇は、覚園寺文書巻頭に記されているとおり、覚園寺を勅願所「金剛宝殿」と名付け庇護なさいました。本堂 薬師堂を再建された足利尊氏公とも縁の深い天皇です。時代を拓き悩み戦った人物ゆかりの地 覚園寺で秘仏として大切に護持してきた意義にどうか思いを馳せてご参拝ください。
このたび覚園寺 愛染明王像の赤色剥落が目立ちはじめた為、修繕することにいたしました。今回の工期はおよそ一年です。万全なおもどりを、どうぞご期待下さい。愛染堂の中央尊がお留守になる事態の対処を覚園寺役員で話し合い、愛染明王様の留守を護り、皆さまに安心と生きる喜びを感じていただきたいと願い、これまで大切に祈り護持してきた秘仏を開帳することにいたしました。今回開帳いたします尊像は、小さな像ですが、愛染明王さまと同様に金剛杵と金剛鈴をもち、中世の仏教文化にも深く寄与された 後醍醐天皇 御像 髙村光雲 作です。後醍醐天皇は、覚園寺文書巻頭に記されているとおり、覚園寺を勅願所「金剛宝殿」と名付け庇護なさいました。本堂 薬師堂を再建された足利尊氏公とも縁の深い天皇です。時代を拓き悩み戦った人物ゆかりの地 覚園寺で秘仏として大切に護持してきた意義にどうか思いを馳せてご参拝ください。
観音像だけでも生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつきません。中には弟子がおおむね作り、仕上げを光雲が行って光雲の銘が入っているいわゆる工房作も多いのですが。
そこで、「ここにもあったのか」という例があとからあとから検索の網に引っかかります。過日、拝観してきた同じ神奈川県の大山寺さんの三面大黒天像などもそうでしたし、今回の覚園寺さんの後醍醐天皇像というのも、まったく存じませんでした。
さすがに秘仏(厳密には仏像ではありませんが)扱いで、フライヤーにはお厨子画像のみ。それがかえって「これはぜひ見てみたい」と思わせる効果絶大ですね。
早速、拝観申し込みを致しました。皆さまも是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。出張か、あるいは夏休みということで上京し、光太郎に会いに来たようです。桃は浅沼が自宅で栽培していたものとのこと。
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しておよそ10ヶ月、そろそろ太田村が懐かしく感じられるようになったようです。
そこで、「ここにもあったのか」という例があとからあとから検索の網に引っかかります。過日、拝観してきた同じ神奈川県の大山寺さんの三面大黒天像などもそうでしたし、今回の覚園寺さんの後醍醐天皇像というのも、まったく存じませんでした。
さすがに秘仏(厳密には仏像ではありませんが)扱いで、フライヤーにはお厨子画像のみ。それがかえって「これはぜひ見てみたい」と思わせる効果絶大ですね。

【折々のことば・光太郎】
わざわざ御上京来訪されたののにお構ひも出来ず、却て御散財をかけてすみませんでした、 先生におめにかかると山口部落の全貌が眼に見えて来てなつかしい限りでした、いただいた桃をたべながら思にふけりました、 あの日が暑い日の終らしく翌日から急に涼しくなり、しのぎよくなりました、岩手から涼風が来たやうです、
昭和28年(1953)8月26日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳
浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。出張か、あるいは夏休みということで上京し、光太郎に会いに来たようです。桃は浅沼が自宅で栽培していたものとのこと。
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しておよそ10ヶ月、そろそろ太田村が懐かしく感じられるようになったようです。

