昭和20年(1945)5月15日、前月の城北空襲で本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、宮沢賢治の実家や賢治の主治医であった佐藤隆房医師等の勧めで、岩手花巻に疎開のため、上野駅を発ちました(到着は翌日)。この日を記念して、光太郎三回忌に当たる昭和33年(1958)から、光太郎が7年間の蟄居生活を送った郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されるようになりました。

当初は光太郎と直接交流のあった人々による回顧談的な講演、地元の山口小学校の児童による光太郎から贈られた楽器を使用しての音楽演奏などが行われていました。徐々に生前の光太郎を知る人が減り、講演は大学教授や渡辺えりさん、当方など、直接的には光太郎を知らない人が担当することが多くなりましたが、それでもとびとびながら、光太郎と面識のあった方々がお話しされることもありました。末盛千枝子氏、藤原冨男氏、旧太田村の皆さんなど。また、楽器は新しいものになってしまいましたし、山口小学校も統合されてしまいましたが、統合先の太田小学校の児童の皆さんをはじめ、中高生、看護専門学校生の生徒さんたちも、音楽演奏や朗読、郷土芸能などで出演されていました。

その高村祭、令和元年(2019)の第62回をもって終了となってしまいました。翌年からはコロナ禍もありましたし、それが沈静化しても、以前の形での開催はもはや難しい、との判断だったようです。

しかし、地元では復活を望む声が強く、実際、当方がパネラーなどを務めた別のイベントで質疑応答の時間にそういう要望が出されたこともあったりしました。

そこで昨年から、「高村祭」とは銘打たないものの、やはり5月15日に「花巻 光太郎を知る会」さんという有志の市民団体の主催で、山荘敷地内の光太郎詩碑前で光太郎詩の朗読を行うというイベントが行われています。今年も開催したそうです。

ちなみに同会代表の阿部彌之氏の父君は、宮沢賢治の教え子にして、花巻に林檎栽培を広め、光太郎とも深く交流のあった故・阿部博氏です。
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「高村祭」時代には花巻市さんの共催だったので、小中校生・看護専門学校生などが大挙して参加、そうすると保護者の皆さんも我が子の晴れ舞台を見ようと集まり、大勢の方々で賑わいました。それが無い分、こぢんまりとした集いですが、「高村祭」の精神を受け継ぐという意味では、有意義なものだと思います。たまたま訪れていた観光客のご夫婦なども見守られていたそうです。

泉下の光太郎も照れくさそうにしつつも喜んでいたのではないでしょうか。ちなみにこの詩碑の地下には、当会顧問であらせられた北川太一先生が保管なさっていた、光太郎が歿した時に剃った髭(ひげ)が、第一回高村祭に合わせて行われた詩碑の建立の際、分骨のように遺髯として埋納されています。

ただ、精神を受け継ぐというだけでなく、やはり「高村祭」の名称の復活が望まれるところですが……。

【折々のことば・光太郎】

早速木炭十俵安着、感謝します、ちかく為替をお送りしますが、とりあへず到着のおしらせまで、

昭和28年(1953)5月12日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

昨日も書きましたが、駿河は光太郎に山小屋の土地を提供してくれた村の長老でした。
駿河
元々太田村は炭焼きが主産業の一つで、良質な炭が生産されていました。村にいた頃、当たり前のように使っていた炭が、上京して改めていいものだったと再確認し、取り寄せたわけです。