埼玉県東松山市からの情報を2件。
まずは市民講座です。
まずは市民講座です。
期 日 : 2025年5月16日(金)
会 場 : 高坂丘陵市民活動センター 埼玉県東松山市松風台8-2
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人
高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか? 彫刻家・高村光太郎とも関係がある?
講師 生涯学習部長 柳沢知孝
東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。
「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。
光太郎を作った胸像も含まれます。
何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。
ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。
ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。
望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。
会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。
卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。
ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。
というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、
「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。
中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。

講師 生涯学習部長 柳沢知孝
東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。
「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。

何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。
ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。
ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。
期 日 : 2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会 場 : 原爆の図 丸木美術館 埼玉県東松山市下唐子1401
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 900円、中学生・高校生・18歳未満 600円、小学生 400円、60歳以上 800円
望月桂(1886-1975)は、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した芸術家です。黒耀会は、社会の革命と芸術の革命は自由獲得を標榜する点において不可分であると主張した芸術団体です。美術に限らず、文学や音楽、演劇など、さまざまな領域の表現者や労働運動家が参加して1919年に結成されました。参加者の顔ぶれは、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄や、社会主義運動の指導者となる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊など、類例のない多彩さでした。表現はあくまで個人のもので他人の評価を前提としないという考えのもと、無審査で誰もが参加できる自由度の高さも重要な特徴でした。1922年頃に解散するまで4度の展覧会を開催し、プロレタリア美術運動の草分けとして評価されています。
しかし望月の活動はそれだけではありません。黒耀会結成前には一膳飯屋を営み、社会運動家や労働者の集う場を形成していました。1920年代後半には犀川凡太郎の筆名で読売新聞に漫画を描き、その後に平凡社の百科事典の挿絵も手がけました。1938年から39年までは漫画雑誌『バクショー』を主宰し、漫画家の小野佐世男や、東京美術学校で望月の同級生だった藤田嗣治も参加しています。1945年に長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)に帰郷後は、地主の立場でありながら戦後の農地改革を先導し、農民運動に尽力しつつ、信州の自然を題材に数多くの風景画を残しました。
本展は、こうした幅広い活動と、その活動に貫かれた自由と扶助の精神を紹介するものです。開催にあたっては、長年望月を研究してきた二松学舎大学准教授の足立元(美術史・社会史)の呼びかけにより、美術館学芸員や地元地域の関係者、美術・文学・社会運動などの研究者、アーキビスト、ジャーナリスト、編集者らによる「望月桂調査団」が組織され、ご遺族の厚意のもと、3年前から資料調査を進めてきました。特筆されるのは、かねてより望月を敬してやまない風間サチコ、卯城竜太、松田修といった現代アーティストも調査団に参加し、本展のタイトルやロゴマークの考案、展示監修、映像制作といった役割を担うことです。こうした職業的立場を超えた連携による展覧会の立ち上がり方も、黒耀会の精神を今日的な視点から読みなおすための重要な導線となるでしょう。
望月の掲げる問題意識は、閉塞した日常を生きる私たちにも通じるものです。本展では、油彩画、水墨画をはじめ、デッサンや漫画、さまざまな関連資料など約120点を展示し、その足跡をたどります。
望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。
会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。
卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。
ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。
というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、
昭和28年(1953)3月10日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳
「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。
中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。
