光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。