『毎日新聞』さんの石川版に、光太郎と交流のあった詩人/作家・室生犀星令孫にして犀星記念館名誉館長・室生洲々子氏の連載「犀川のほとりで」が連載されています。
若干前の掲載ですが、4月20日(日)分に光太郎の名。刺身のツマのような扱いですが(笑)。
犀星と光太郎というと、犀星が光太郎没後の昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載した「我が愛する詩人の伝記」中の「高村光太郎」の項が有名です。若い頃、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、智恵子に追い返された話や、次々に詩が雑誌に掲載される光太郎への嫉妬など、かなりアイロニカルな内容です。
しかし、以前にも書きましたが、同じく犀星が改造社から昭和4年(1929)に刊行した随想集『天馬の脚』では「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」と、光太郎を賞讃していました。両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったように思われます。
『天馬の脚』の方は、盟友・萩原朔太郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた際の体験が元になっています。朔太郎がこの時のことを書いたものがないかと探していたのですが、見つけました。昭和3年(1928)4月の雑誌『新潮』第25年第4号に載った「歳末に近き或る冬の日の日記」というエッセイです。
まず、前年とおぼしき時、福士幸次郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた話。そしてその約3年前、犀星と二人で複数回訪問したことも回想されています。
僕が前に高村氏を訪うたのは、三年以前、田端に居た時であつたが、何時来ても氏のアトリエは同じであり、思ひ出が非常に深い。僕がまだ無名作家で、室生と二人で東京にごろごろしてゐた頃、図々しくもよくこのアトリエを訪ねたものだ。その頃先輩の高村氏は、僕等に親切にしてくれたので、一層思ひ出が深いのである。
ちなみに犀星は光太郎の6歳下、朔太郎は同じく3歳下(智恵子と同年)です。
犀星と光太郎が一緒に写っている写真も見つけました。
キャプションの通り、大正7年(1918)の撮影。光太郎の向かって右下に犀星が居ます。上記の福士幸次郎も。朔太郎がここにいないのが残念ですが。
さて、令孫・洲々子氏のエッセイ。「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ」としたお祖父様同様、光太郎の「道程」(大正3年=1914)書き出しを「なんと印象的な一節だろうと魅了された」として下さいました。ありがたいことです。そして「小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。」とされていますが、なかなかどうして味のある文章ですね。
今後ますますのご健筆を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
今年花巻の方は雪も寒さも殊の外はげしいやうで、山口の小屋もさぞ雪に埋もれてゐる事でせう、東京はひどくあたたかく、まるで冬が無いやうで仕事にはらくですが薄気味わるい次第です、
マイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の冬と比べれば、東京の冬など何ほどのこともなかったのでしょうが……。
若干前の掲載ですが、4月20日(日)分に光太郎の名。刺身のツマのような扱いですが(笑)。
こども
こどもが生れた/わたしによく似ている/どこかが似ている/こえまで似ている/おこると歯がゆそうに顔を振る/そこがよく似ている/あまり似ているので/長く見詰めていられない/ときどき見に行って/また机のところへかえってくる私は/なにか心で/たえず驚きをしている
『星より来れる者』より
初出は未詳だが、昭和11年に発行された書籍に収録されているので、長男豹太郎が生まれた時の作品だろう。やっと憧れた家庭を持ち、初めての子供が生まれた時の喜びと驚きを率直に書いている。豹太郎さんは私の伯父であるが、1歳で夭折(ようせつ)している。この深い悲しみを祖父母はどのように癒(いや)したかはわからない。豹太郎さんのことは、母もあまり話さなかった。
中学3年生の時、教科書に祖父の詩「寂しき春」が収められていた。続いて、高村光太郎の「道程」。「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」と始まるその詩を読んだ時、なんと印象的な一節だろうと魅了された。そして、先生は私に祖父の詩の代表作である「ふるさとは…」で始まる小景異情その二を暗誦(あんしょう)させた。私はあがってしまい最後まで暗誦できず、とても恥ずかしい思いをした。教科書には、晩年の祖父の顔写真が掲載されていて、友達から「似ている」と冷やかされ、当時の私は乙女心が傷ついた。
馬込の家の縁側で祖父が寛(くつろ)いでいる写真がある。着物の裾が捲(まく)れ、膝から下が写っている。見覚えのある脛(すね)だと思ったら、自分の脛とそっくりだった。祖父の記憶がない私にも、祖父の遺伝子は流れているのだと、実感した瞬間だった。 最近は、小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。
先日、天気のよい昼下がり、雑貨屋さんを覗(のぞ)くと、幾何学模様の織物を見つけた。アフリカ民族の織った「クバ布」だという。気に入って購入した。和室の壁に掛けてみた。その横に、昔、飼っていた猫がピアノの鍵盤に乗っているモノクロの写真を掛けた。このクバ布、民芸っぽい雰囲気を醸し出すのか、和室にもモノクロ写真とも相性がよく、とても満足した。 我が家には、古い布や端切れが沢山(たくさん)あった。子どものころは、ぼろ布としか思っていなかったが、それは祖父が集めたものだった。そして、その布を骨董(こっとう)品の下や机に敷いていたようだ。今風に言うならば、インテリアコーディネートだろうか。 我が家の部屋はすべて祖父好みに整えられていた。
私の布好き。これも祖父からの遺伝かもしれない。奇妙なところも似るものだ。
犀星と光太郎というと、犀星が光太郎没後の昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載した「我が愛する詩人の伝記」中の「高村光太郎」の項が有名です。若い頃、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、智恵子に追い返された話や、次々に詩が雑誌に掲載される光太郎への嫉妬など、かなりアイロニカルな内容です。
しかし、以前にも書きましたが、同じく犀星が改造社から昭和4年(1929)に刊行した随想集『天馬の脚』では「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」と、光太郎を賞讃していました。両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったように思われます。
『天馬の脚』の方は、盟友・萩原朔太郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた際の体験が元になっています。朔太郎がこの時のことを書いたものがないかと探していたのですが、見つけました。昭和3年(1928)4月の雑誌『新潮』第25年第4号に載った「歳末に近き或る冬の日の日記」というエッセイです。
まず、前年とおぼしき時、福士幸次郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた話。そしてその約3年前、犀星と二人で複数回訪問したことも回想されています。
僕が前に高村氏を訪うたのは、三年以前、田端に居た時であつたが、何時来ても氏のアトリエは同じであり、思ひ出が非常に深い。僕がまだ無名作家で、室生と二人で東京にごろごろしてゐた頃、図々しくもよくこのアトリエを訪ねたものだ。その頃先輩の高村氏は、僕等に親切にしてくれたので、一層思ひ出が深いのである。
ちなみに犀星は光太郎の6歳下、朔太郎は同じく3歳下(智恵子と同年)です。
犀星と光太郎が一緒に写っている写真も見つけました。
キャプションの通り、大正7年(1918)の撮影。光太郎の向かって右下に犀星が居ます。上記の福士幸次郎も。朔太郎がここにいないのが残念ですが。
さて、令孫・洲々子氏のエッセイ。「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ」としたお祖父様同様、光太郎の「道程」(大正3年=1914)書き出しを「なんと印象的な一節だろうと魅了された」として下さいました。ありがたいことです。そして「小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。」とされていますが、なかなかどうして味のある文章ですね。
今後ますますのご健筆を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
今年花巻の方は雪も寒さも殊の外はげしいやうで、山口の小屋もさぞ雪に埋もれてゐる事でせう、東京はひどくあたたかく、まるで冬が無いやうで仕事にはらくですが薄気味わるい次第です、
昭和28年(1953)2月13日 照井秀子宛書簡より 光太郎71歳
マイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の冬と比べれば、東京の冬など何ほどのこともなかったのでしょうが……。