4月2日(水)、当会主催の第69回連翹忌の集いにご出席下さった『毎日新聞』さんの記者氏による大きな記事が、4月23日(水)、『毎日新聞』さんの関東版に載りました。
アジア太平洋戦争が終結した80年前、みちのくの山野にわが身を「島流し」にした文化人がいた。日本の近現代を代表する彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)である。妻・智恵子への愛を支えとしつつ、戦争責任を背負った光太郎の最後の道程を岩手、東京とたどった。【高橋昌紀】
㊧高村光太郎の命日で、遺影と献杯酒とレンギョウの花=東京都千代田区で
ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
3月に訪れた光太郎の旧居は、質素を超えて粗末に見えた。山中にあった林業用の作業小屋を転用し、終戦直後の1945年11月に建てられた。土壁に囲まれた板間と土間は計15畳ほどしかなく、杉皮ぶきの屋根が載る。冬には雪が吹き込み、夜具に積もったこともあったそうだ。
「高村山荘」の板間。当初は電気も通っていなかった。通常は外側からの拝観になる=岩手県花巻市で
東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
かといって、世捨て人となったわけではない。戦後の日本に必要なのは文化の向上、と見定めていた。村民はもちろん、東北の芸術家らとの交流エピソードには事欠かない。一般公開されている山荘にはには子供たちと並んだサンタクロース姿の写真もあり、ほほ笑ましい。
――智恵子は死んでよみがへり、わたくしの肉に宿つてここに生き、かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ(「メトロポオル」1949年10月、一部抜粋)
智恵子も共にいた。
「ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ」(同)とたたえた理想郷だったが、光太郎は離れることになる。1952年10月、青森県から「乙女の像」の制作依頼を受け、一時的な帰京を決める。
光太郎はアトリエで花巻の「小屋」をしばしば気にしていたという。やがて智恵子をモデルにした塑像を完成させたが、体調は悪化するばかりだった。帰郷はかなわず、1956年4月2日、肺結核のために死去、73歳だった。
空が無い、ほんとの空が見たい――。そんな智恵子のつぶやきが枕元で聞こえただろうか。アトリエからの帰路、知らず知らずのうち、ビルの合間の空を見上げていた。
アトリエ取り壊しの危機
高村光太郎の死後も、旧太田村の住民らは「小屋」=「高村山荘」を守ってきた。風雪害などを防ぐため、1957年に木造の覆屋を建て、さらに77年には鉄骨造の上屋で覆った。光太郎がいかに尊敬され、愛されていたかが分かる。隣接の記念館では詩、彫刻、書、遺品などを展示し、地元の小学校に贈られた「正直親切」と書かれた扁額(へんがく)は光太郎の人柄をしのばせる。
遺作となった「乙女の像」は青森・十和田湖畔に建つ。塑像が制作された東京都中野区のアトリエは洋画家、中西利雄(00~48年)が建てたが、老朽化が著しい。取り壊しの危機にあり、有志が集まって2023年に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(渡辺えり代表)が発足した。
光太郎は詩集「道程」「智恵子抄」などで知られるが、アジア太平洋戦争中は戦意高揚のための詩も書いた。劇作家で俳優の渡辺代表は光太郎の半生を舞台劇にしたこともあり、「保存する会」の意義を語る。「光太郎は自らに罰を与えました。反省と悔悟のうえで、『平和と自由の祈り』を『乙女の像』に込めました。その思いを伝えるためにも、アトリエを残したい」
メモ 「高村山荘」(岩手」(岩手県花巻市太田3の91の3)は、東北新幹線新花巻駅から車で約25分。記念館も近くにある。詳しくは記念館0198・28・3012。東京都中野区のアトリエは「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が署名・寄付などを募集している。同会事務局090・4422・1534(曽我貢誠さん)。
昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。
中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。
関連する件で、展示の情報を。
主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。

表は行き止まりの路地ですが、そちらからも見られます。
それぞれぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。
それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。
昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。
中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。
関連する件で、展示の情報を。
主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。
期 日 : 2025年4月24日(木)~5月23日(金)
会 場 : 中野区桃園区民活動センター2階ロビー 東京都中野区中央4丁目57-1
時 間 : 9:00~22:00
休 館 : 5月19日(月)
料 金 : 無料
昨年11月、中野ZERO美術ギャラリーにて「中野たてもの応援団」と協力し「中野を描いた画家たちのアトリエ展」を開催しました。今回はその時の一部ですが、地域の皆様に中西利雄先生やアトリエのことをもっと知っていただきたいと、ミニ展示会を開催することにしました。日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったアトリエについてご紹介します。
主催:中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 協力:中野たてもの応援団



【折々のことば・光太郎】
今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、
昭和28年(1953)1月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。
それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。