大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。
ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。
保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。
光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。
こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。
歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野
長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)
「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)
ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。
保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。
昭和27年(1952)10月6日
中西富江宛書簡より 光太郎70歳
中西富江宛書簡より 光太郎70歳
光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。
こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。