第69回連翹忌の日に発行の扱いの雑誌等、2件ご紹介します。
で、まずは高村光太郎研究会刊『高村光太郎研究 46』。基本的に、前年秋に行われた学会としての「高村光太郎研究会」での発表者が、発表内容を元に原稿を書くというものです。そこで今号は昨年11月23日(日)に開催の第67回高村光太郎研究会で発表された大島裕子氏の「長沼智恵子、縁談話の真実」、熊谷健一氏の「智恵子と光太郎の人間学~美の求道者の生涯に思う~」など。
それから当方、連載を持たせていただいておりまして、一年間で発掘した『高村光太郎全集』等に漏れていた作品の集成「光太郎遺珠」と昨年一年間の関係の動向をまとめた「高村光太郎没後年譜」。
「光太郎遺珠」の方は、短歌一首、談話筆記を含む散文が4篇、アンケート回答で1篇、出版物広告に掲載された短評その他の雑纂4篇、それから今回は書簡が多く、これまで部分的に活字になっていたものの追補や原文が英文でその訳のみ見つけたものを含め、25通。
画像は雑纂のうち、光太郎自筆の年譜です。明治39年(1906)から大正3年(1914)にいたる期間が書かれていますが、いつ、何のために書かれたものかが不明です。
「高村光太郎没後年譜」は、このブログ昨年12月末に載せた記事を根幹としています。
で、まずは高村光太郎研究会刊『高村光太郎研究 46』。基本的に、前年秋に行われた学会としての「高村光太郎研究会」での発表者が、発表内容を元に原稿を書くというものです。そこで今号は昨年11月23日(日)に開催の第67回高村光太郎研究会で発表された大島裕子氏の「長沼智恵子、縁談話の真実」、熊谷健一氏の「智恵子と光太郎の人間学~美の求道者の生涯に思う~」など。
それから当方、連載を持たせていただいておりまして、一年間で発掘した『高村光太郎全集』等に漏れていた作品の集成「光太郎遺珠」と昨年一年間の関係の動向をまとめた「高村光太郎没後年譜」。
「光太郎遺珠」の方は、短歌一首、談話筆記を含む散文が4篇、アンケート回答で1篇、出版物広告に掲載された短評その他の雑纂4篇、それから今回は書簡が多く、これまで部分的に活字になっていたものの追補や原文が英文でその訳のみ見つけたものを含め、25通。
画像は雑纂のうち、光太郎自筆の年譜です。明治39年(1906)から大正3年(1914)にいたる期間が書かれていますが、いつ、何のために書かれたものかが不明です。
「高村光太郎没後年譜」は、このブログ昨年12月末に載せた記事を根幹としています。
回顧2024年 1~3月。 回顧2024年 4~6月。 回顧2024年 7~9月。 回顧2024年10~12月。
上の方に奥付画像を貼っておきました。ご入用の方、そちらをご参照し注文なさって下さい。
もう1点、当会刊行の『光太郎資料63』。
故・北川太一先生が刊行されていたものを引き継がせていただいて、連翹忌の4月2日、智恵子忌日・レモンの日の10月5日と年2回出しています手作りの冊子です。
個人的な推しは光太郎の父・光雲の「高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機」。宮城県松島の瑞巌寺さんに納められている巨大な聖観音像の落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しまして、そこに載っていたものです。同像がオーダーメイドではなかったことや、像高が一丈二尺(約3.64㍍)であること、制作の助手が高弟の山本瑞雲、その弟子の阿井瑞岑、塗漆(としつ)は福田作太郎、彩色は萩原兵助であったことなど、これまで未知の事柄でした。
福田と萩原はやはり光雲高弟の関野聖雲が手がけた京都浄瑠璃寺の吉祥天女立像模刻に際しても腕を揮っています。
こちらはご入用の方、お申し付け下さい。
【折々のことば・光太郎】
この夏花巻を訪れ、宮沢さんの実家を見舞つたり、詩碑に詣つたりされたのは大変よかつたと思ひました、お心に多くの滋養を与へる事になるでせう、阿多多羅山や阿武隈川をも見られたとの事、なつかしく思ひます、
栗原克丸は埼玉県比企郡福田村(現・滑川町)在住で、同郷の元東松山市教育長の故・田口弘氏と親しい間柄でした。光太郎の山小屋は訪れなかったようですが、宮沢家や光太郎が揮毫した賢治詩碑、智恵子の故郷・福島二本松などを周遊したようです。
上の方に奥付画像を貼っておきました。ご入用の方、そちらをご参照し注文なさって下さい。
もう1点、当会刊行の『光太郎資料63』。
故・北川太一先生が刊行されていたものを引き継がせていただいて、連翹忌の4月2日、智恵子忌日・レモンの日の10月5日と年2回出しています手作りの冊子です。

「光太郎遺珠」から 岩手にて その一
光太郎回想・訪問記 『非常の時』より 佐藤隆房
光雲談話筆記集成
高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機
高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三里塚御料牧場(千葉県)
音楽・レコードに見る光太郎 佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」
高村光太郎初出索引 昭和8年~10年
個人的な推しは光太郎の父・光雲の「高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機」。宮城県松島の瑞巌寺さんに納められている巨大な聖観音像の落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しまして、そこに載っていたものです。同像がオーダーメイドではなかったことや、像高が一丈二尺(約3.64㍍)であること、制作の助手が高弟の山本瑞雲、その弟子の阿井瑞岑、塗漆(としつ)は福田作太郎、彩色は萩原兵助であったことなど、これまで未知の事柄でした。
福田と萩原はやはり光雲高弟の関野聖雲が手がけた京都浄瑠璃寺の吉祥天女立像模刻に際しても腕を揮っています。
こちらはご入用の方、お申し付け下さい。
【折々のことば・光太郎】
この夏花巻を訪れ、宮沢さんの実家を見舞つたり、詩碑に詣つたりされたのは大変よかつたと思ひました、お心に多くの滋養を与へる事になるでせう、阿多多羅山や阿武隈川をも見られたとの事、なつかしく思ひます、
昭和27年(1952)9月2日 栗原克丸宛書簡より 光太郎70歳
栗原克丸は埼玉県比企郡福田村(現・滑川町)在住で、同郷の元東松山市教育長の故・田口弘氏と親しい間柄でした。光太郎の山小屋は訪れなかったようですが、宮沢家や光太郎が揮毫した賢治詩碑、智恵子の故郷・福島二本松などを周遊したようです。